【森美術館】未来と芸術展で自然とテクノロジーのあり方について考えていた




六本木の森美術館で「未来と芸術展:AI、ロボット、都市、生命ーー人は明日どう生きるのか」が開催されており、このイベントに参加してきました。(展示は2020/3/29まで)

詳細は公式サイトをご覧ください。

目次

水上都市は人類の希望となりうるか

将来の都市のあり方について、水上都市というものが提案されていました。

居住空間や、生活に必要なインフラを賄う施設をユニット単位で作成し、それを水上で有機的に結合するというモデルです。

地球温暖化が進み海面が上がることで人類が使える土地は減っていきます。実際にベネチアやシンガポールなどの海洋都市、またオセアニアの諸島については海面上昇の影響をもろに受けているという状況です。

そのような状況において、水上でも生活ができるようにするということは意義があるのかもしれません。

しかし、水上に人が住むことは人類の歴史の中でこれまで行われていなかったことです。そのため、色々と問題がでてくるだろうなぁと思いました。

まず、大陸に住むのと違い、海の上の都市に住むと逃げ場がありません。日本は島国で閉鎖的であるように、水上都市のルールに馴染めなかったとしても、そこから出ていくことが出来ないというのは一つの問題です。

例えば、東南アジアのように陸続きであれば、タイからラオスに移住したり、ベトナムからカンボジアに移住するためのコストは比較的安く住むでしょう。そのため、居住場所の選択肢というのが水上都市だと限られてしまうように思いました。

また、木や草を水上都市に持ってきたとしても、大陸の自然が持つような複雑なエコシステムを構築することは、ほぼ不可能でしょう。木や草も本来は陸に存在するものですから、海に存在するエコシステムに組み込ませるには、遺伝子改良をするなど特別なことが必要に思います。

都市というのは、自然を排斥することで成り立っている人間の意識の表出ですが、それが陸であれば気軽に自然にアクセスすることが出来ます。例えば、平日は都心で仕事をして、土日は電車で奥多摩や富士山に行くと行ったように。

しかし、海上都市ではそのような緑と複雑性あふれる自然の中に行くには飛行機や船に乗るなど比較的大変でしょう。

人間は陸で生きることに特化した生物です。だから肺呼吸しかできないし、硬い土の上を歩けるように人体構造が進化してきました。いくらテクノロジーが進化しても、水上都市に住み続けることで取り返しがつかない深刻な状態になるように思います。

そのため、将来的には水上都市という可能性を考えつつも、そこに希望を持たないほうが良いように思います。むしろ水上都市の欠点を意識することで、いまの環境を以下に持続可能にしていくかを考えるべきではないでしょうか。

将来は水上都市や火星に住めるようになるだろうから環境を汚してもいいじゃないか、という意識には間違ってもするべきでは無いように思います。なぜなら、僕らは今の環境に適応して進化してきた種であり、意識とは違って肉体の構造を急に変えることは出来ないからです。

ネオ・メタボリズム建築は何をもたらすか

メタボリズムとは、人口の変化と技術発展によって建築が有機的に変化していくという考え方です。

例えば有名な例でいうと、黒川紀章氏がデザインした中銀カプセルタワービル(Wikipedia)があります。建物はカプセル(部屋)が組み合わせって出来ており、技術上はカプセルを交換することが可能な設計になっています。

上で紹介した水上都市のモデルも、メタボリズム的に提示されていました。つまり、居住空間や施設(下水道・電気・ガス・ショッピング・自然)といった単位で島をつくり、それを結合することでひとつの都市を形成するという考え方です。

そうすると、人口が増えたときにユニットを増やすことで、居住空間や必要インフラを拡張することができるし、人口が減ったら逆に余分なユニットを使わなくすることで過剰なエネルギー消費を避けることが出来ます。

僕はこのメタボリズム的発想は、特にこれからの日本にとって重要なように思いました。そう考えた理由は以下です。

  • ライフスタイルの選択肢が広がる
  • 資源消費の無駄が減る

ライフスタイルの選択肢が広がる

レゴのようにユニット単位で建築をつくるということは、ユニットがトラックなどで移動できるのであれば、気軽に建物自体を移動できるということです。いわば、キャンピングカーの進化版と言っても良いかもしれません。

すると、今のように家を買ってしまったからといって引っ越しを我慢せずにすみます。住む場所の選択肢が広がるのです。

ユニットを組み合わせて作る建築ばかりになったら、街の建物が均一的になって気持ち悪くなるように思います。しかし、CADが既に実現しているように、コンピュータの計算によって奇抜な建築物でも建物として成り立つような構造をつくることができます。

建築については素人ですが、おそらくユニットごと、あるいはユニットの組み合わせ方についてもコンピュータによってかなりのバリエーションをつくることができるようになるのではないでしょうか。

資源消費の無駄が減る

また、メタボリズムの特徴はスケーラビリティです。現在は建物に関して、不要になったら壊して、必要になったらつくるということを延々と繰り返しています。しかし、これは非常にコストと手間がかかることです。

建築関係者の雇用創出という点では良いのですが、いかんせん日本は人口減少社会なので、むしろ人手がかからないような都市設計をしていかなければいけません。

もしユニット単位で建物をつくることができれば、わざわざ壊してつくってを繰り返さなくても、ユニットを移動させて再利用することで資源や手間を節約することが出来ます。

環境への配慮という点を考えても、メタボリズムには見習うべき点があるように思いました。

これからのコンピューターと人間の関係を本気で考えなければいけない

ここ近年でディープラーニングと呼ばれる、人間の脳神経をモデルにしたコンピューター計算が当たり前に使われるようになってきました。この技術は汎用性もあり、画像認識・回帰分析・音声認識・レコメンドエンジンなど多様な範囲で活用されはじめています。

そして、ディープラーニングは人間の認識そのものを変化させる可能性を秘めています。例えば、画像生成といって、実在しない人物の写真を作成したり、自然の景色の写真を学習させて地球上に存在しない景色を生み出すといったことが行われています。

このとき、我々は違和感を感じることもあれば、感じないこともあります。存在しないはずのものを美しく感じたりするのです。これはこれまで人間が触れたり想像できなかったものがデジタルな空間から表出してきたことを意味します。

これまでコンピューターが「ただの道具」として考えている人が多いように思います。しかし、近年のコンピューターはもはや人間と自然と共存していくべき存在にまでなりつつあるように思います。

なぜなら、コンピュータの内部には人間が見たことも聞いたことも無いような人物や景色が存在している、つまり我々の認識を超えた空間が存在しているからです。

もはや、コンピューターをただの道具とするのではなく、人間がこれまで経験したことがないものを見せてくれる共存相手としてみるべきではないかと感じました。

最後に

この展示全体を通じて考えたのは、「(人間にとって都合がいい)自然」を自然と呼んではいないかということです。

自然と都市というのは対称的なものです。自然は複雑であり既にそこに存在します。一方で都市は人間の意識という同一性へと向かうものが生み出したコントール可能なものです。

街路樹というのは、自然ではありません。なぜならば、人間が意識によってコントロールしているものであり「責任者」が存在するからです。

未来の都市を考える上で、自然と都市の共存といった言葉はよく聞くのですが、ここでいう「自然」とは何を指すのか、それをよく考えなければ人間の住む世界は人間の意識のみで構成された世界になってしまいます。

それは、つまり複雑性、エコシステムを失った世界であり中長期的に見れば崩壊するであろう都市です。あまりにも人間の意識が膨らみすぎた現代において、再び身体性を戻すためにコンピュータを活用できないか。そのようなことを思いました。