会社のフレックス制度を利用して、15時に退社して銀座を散歩することにしました。そのときの記録として記事を書かせていただきます。
目次
なぜ行こうと思ったか
弊社は銀座にありますが、いつも会社と駅との往復しかしないので、銀座という街について詳しく知らないし、土地勘もありませんでした。そのため、せっかく有名な土地で働いているのだから、よく見てみようと思ったわけです。
それに加えて、最近は「美」の多様性について考えています。これが足を運ぶ一因になりました。いつも参加しているコミュニティ内で、「何に「美」を感じるかは多様だよね」ということがトピックとして取り上げられました。僕はなるほど、そうかもしれないなと思いました。
古代ギリシャの「イデア論」では、「美」は事物の中に内在する絶対的なものであると考えられていました。この考え方は西洋哲学へと接続されていきますが、現在ではこの「イデア論」ではなく「現象論的」なものとして美が捉えられています。
イデア論とは反対で「美とは主観的なもの」であるという考え方です。これぞまさに「人によって美は違うよね」という考え方です。
もしこれが正しいのであれば、これまで僕が美しさを感じたことがないモノであっても、見る角度を変えたり、じっくりと見ることによって、美しさを感じるポイントが見つかるかもしれないと思ったのです。
僕は東京の景観が嫌いです。逆にドイツの景観は好きです。
どうして東京の景観が嫌いかと言うと、統一感の無い看板が街中に溢れていて汚いし、お店の種類は統一感がないし、街全体の配色もデタラメだし、低い建物・高い建物、古い建物・新しい建物が混在しているからです。
一方で、ドイツの景観は統一感がありました。看板は控えめに置いてある程度ですし、配色も落ち着いていて目にうるさくありません。家のデザインは伝統的なもので統一感があり、街の中に緑がたくさんありました。
さすがにフランクフルトでは高層ビルなどの近代的エリアもありますが、住居エリアはフランクフルトもベルリンも街全体の配色やデザインが落ち着いているし、人もゆったりと生活していて非常に暮らしやすかったです。
つまり、僕は「統一感」「落ち着いた配色」に美しさを感じる一方で、「カオス」「ぐちゃぐちゃな配色」については嫌悪感を感じます。アジアというのは、とにかく景観に意識が低く情報過多で疲れるのです。
一方で、同じ日本でも京都や沖縄の街並みは好きです。統一感があり、地元ならではの歴史や文化を感じるからです。
ただ、人の価値観や美的感覚は少しですが変わるものですので、もう一度カオスな街と向き合うことで新しい自分が感じる「美」が無いかを銀座に探しに行ったのです。
銀座という街の多様性
上にも書いたように、銀座というのは大変カオスな街です。インドのデリーと比肩するくらいです。街並みという点では、
- タクシー・乗用車・バス・地下鉄・JRなどのあらゆる交通手段
- 創業何百年という老舗のお店・ヴィトンなどの超高級ブランドショップ・大衆店
- 牛丼屋・ラーメン屋などサラリーマン御用達のお店から、各国の料理まで
といったまさに多様性に満ちた場所になっています。
一方で人に関して言えば、
- サラリーマン
- 国内観光客
- 海外観光客
- キャバ嬢
- 地元の人
という人に関しての多様性も高いです。特にここ数年はインバウンド需要が異常に伸びており、観光客が異常に溢れています。ビジネスエリアでもあるのでサラリーマンもたくさんいるし、夜はキャバ嬢やその関係者で溢れます。
そのため、昼・夜問わずに交通は常に渋滞を起こしており、街そのものがまさにカオスな感じになっております。
銀座を歩いてみた
銀座という街を歩いてみると、とても息苦しいという感覚に満たされました。その理由のひとつとして、空が非常に狭いということがあります。高層ビルに囲まれた土地ですから、広い道に出て、首を思いっきり上に向けないと空が見えないんですね。これは本来、不自然なものです。人間がいなければ高層ビルなど建たないわけですからね。
自然においては、綺麗な直線というものがほとんど存在しません。しかし、銀座は直線ばかりです。ビル・横断歩道・お店・道など、いずれも自然には存在しない、人間の意識の産物が並びます。
ドイツのフランクフルトでは、金融の街ということもあり高層ビルが並びますが、ドイツ内では特殊な都市です。そのため、フランクフルトが好きでないというドイツ人も多いのです。高層ビルは、人の心理に圧迫感を感じさせます。
高いビルをさらに高くしようとしているクレーンを見ながら、いつかバベルの塔のようになるのではないかという思いがよぎりました。直線的で人工的な都市は、やはりどこか無理をしているいびつさを強く感じます。
街自体も想像以上にカオスでした。シンプルな外装でまとめたイタリアンレストランの隣に、なかなかカオスでちぐはぐなカフェがあります。フォントだけを見ても、セリフ体を使ったりサンセリフ体を使ったり、全く統一感がありません。看板が二箇所に並び、店上の看板は書き込まれたメッセージと電気で光らせた文字が入り混じっています。
残念ながら、僕はこのような光景を見ても「面白い」とは思うものの、決して「美しい」とは感じませんでした。カオスに美を感じるにはまだ修行が足りないのかもしれません。
これから少子高齢化で労働人口が減っていきますから、より日本は高い付加価値のものを生み出せるようにしていかなければいけません。そのひとつとして、街の景観というものを守る条例をヨーロッパのように作ってもいいと思うのですが、どうなんでしょうか。
イタリアンレストランや、カオスなカフェがある一方で、有名な「歌舞伎座」にやってきました。広角レンズを持っていない(単焦点レンズのみ)なので、建物の一部しか写せませんでしたが、この切り取り方だといい具合に「日本」を感じるように思います。
あまり建物の前には人がいない様子でしたが、歌舞伎は今日やらないのでしょうか?以前訪れたときは、真っすぐ歩けないくらいの人で溢れていました。
高いビルが並ぶ一方で、小さい路地では木造の古いお店も見かけます。シンプルで直線的で整った、シャネルやAppleStoreとは対極的に、どこか人間味を感じるところに惹かれてシャッターを切ってしまいました。
値段がかすれて見えなくなっている感じがとても好きです。
人間的なもの・古いものには魅力を感じる
銀座にはあらゆるハイブランドのショップが並んでいます。シャネル・グッチ・Appleといった外資から、松屋や三越といった日本の老舗デパートが散在します。
これらの建物は立派で美しいのですが、少なくとも外観だけを見ると「キレイ」だが「美しくない」のです。直線や曲線がいかにも人工的であり、人間味を感じない。そして「さわるな!」という人に対して冷たいメッセージを感じてしまうのは、僕だけでしょうか。
都市というものは、綺麗な直線や曲線を使って幾何的に物質を整えて、システマティックに、そして「触る」ことを拒絶する空間であると僕は認識しています。のっぺりとしてデコボコが無いコンクリートは、触ろうとは思いません。触っても均一すぎて面白くないですから。
そういったことがあって、それとは真逆に位置する人間的で、古くて、触りたくなるものに魅力を感じるのかもしれません。ヨーロッパを旅したときも、やはり古いお城や建物、自然、人の営みを感じるものに多くシャッターを切ってきました。
自分がなぜシャッターを切ったか、ということを考えていくことは、いわば自分との対話であるというように感じる一日でした。
さいごに
東京のカオスな街並みから「美」を感じることができるか、というテーマで写真を撮りに行きました。結論から言えば、「面白い」けど「美しい」とは思わなかったという結果です。ここでいう「美しい」というのは「ずっと見ていても飽きないか」「家に置いておきたいと思ったか」ということです。
このカオスな街並みや雑多な繁華街が好きという人もいるのは理解できますし、自分自身の経験によってこれから美的感覚が変わっていく可能性も十分にあります。
できるだけ世の中に「美」を感じることが出来る方が、人生楽しくなると思います。もしかしたら、銀座という街の成り立ちを深く理解すると見方が変わるのかもしれません。理解すると見方が変わるのはアートと同じですね。
だからこそ、これからも教養を深めて、たくさんのものに触れることで、世界にあふれる「美」を見つけていけるようになりたい思いました。