【コラム】自然の複雑性を排斥する「人間都市」について考える




自然の複雑性や偶発性というものは、人間が生物である以上受け入れなければいけないものであると思います。例えば、地震や噴火といった自然災害というのはまさに自然が為す複雑な構造と偶発性によって生まれるものであり、誰の責任にもできません。

自然災害が多い日本では、本来「自然とは大いなる神そのものである。確かにつらいものはあるが、受け入れるべきものである」というアニミズム的な価値観によって文化が形成されてきました。

一方で、産業革命から都市化が進むことによってこのアニムズム的な価値観が崩れ、どこかおかしくなっているような気がします。例えば、3.11の大地震が起きた時に「誰のせいにも出来ないのがつらい」というコメントを聞きました。

つまり、なにか都合が悪いことが起きた際に、誰かのせいにしないとやっていけなくなってしまったのです。この誰かのせいにしたがる心情は分からなくはないですが、生物として行きていく上で大変な障害になると思うのです。

目次

都市化によって生まれた「誰の責任か」論

僕はこの「誰かのせいにしないと気がすまない」という価値観が蔓延している原因を、過度な都市化にあると捉えています。

何故ならば、都市というのはすべて人間が設計して人間がつくったものだからです。ビルやマンションは建設業者が責任を持ってつくり、管理会社が責任を持って管理しています。これらに欠陥があれば、建設業者や管理会社という責任者に責任が問われます。

道路・駅のプラットフォーム・街路樹・下水管・信号機など、ありとあらゆるものが「誰か」によって設計され、「誰か」によって作られ、「誰か」によって管理されています。つまり、都市に存在するものは責任を負う誰かが存在しているということなのです。

一方で自然はどうでしょうか。例えば急にイノシシが突っ込んで来て転んでしまったとか、漁の途中で大波が来て水浸しになってしまったとか、誰にも責任が無いもので溢れています。

本来は「自然の意志だから仕方がない」という物事を受け入れる精神構造・器があったにも関わらず、都市化によって身の回りのものに責任者がいる状態が続いたことで、その心が失われているように思うのです。

都市には虫が少ないし、想定外のこともあまり起きないし、生物と向き合って生命を感じる時間もごく僅かです。確かにストレスを感じにくい一面はありますが、果たしてそれが豊かな人生につながるのかは甚だ疑問なのです。

都市に住んでいる人間は、食べ物が腐っていないか必死に臭いを嗅ぐこともないし、危ない蛇や動物が出てこないか耳を澄ますこともありません。

そういった五感を奪う性質を持つ都市が発展したことで、動物としての五感を衰えさせ、感性や想像力を衰えさせ、審美感や倫理観を台無しにしているように思うのです。

複雑性を排斥する都市と工業

キレイに整った道路と、凸凹している土でできた道はどちらが歩きやすいでしょうか。当然、キレイに整った道路が歩きやすいでしょう。

都市というのは、人間が作った人間の為の空間なので複雑性を排斥し、シンプル性を志向します。くねくね曲がった道よりもまっすぐの道の方が歩きやすいし、駅や街の看板はシンプルでわかりやすいものが好まれます。

また、都市に溢れている工業製品はより広く浸透して利益を改修するためにシンプルなものが好まれます。Apple製品や無印良品はいい例で、誰でも使いやすいものを作ることで資本主義社会での成功を収めています。

一方で自然というのはとにかく複雑です。様々な形の石が落ちているし、川や道はくねくねしているし、様々な種類の動物や虫が色々な場所に生息しています。そして生物そのものが自然であり究極の複雑なものであると言っても過言ではありません。

虫一匹をとっても、あんなに小さなものがどうしてあれほど複雑な動きをするのでしょうか。まさに自然が生み出した叡智の結晶が生物であると言えるでしょう。

本来生きるということは複雑であり、多様性を受け入れることであると僕は思います。つまり、生態系というのは違う者同士が連環することで成り立っており、自分もそのエコシステムの一部であると。複雑性を受け入れるというのは、エコシステムを存続させる上では大切なことなのです。

こうして複雑性、つまりは多様性を排斥することで出てきたのがマイノリティーの存在です。本来多様であるものを無理やり区切ると、マジョリティとマイノリティーが生まれます。近年、LGBTが問題になっているのも、多様性を受け入れられない都市の発展によるものではないでしょうか。

自然の中にいるときは、用を足すのに男女はあまり関係ありません。しかし、都市では男子トイレか女子トイレの2つしか無いところが多く、どちらに入ればいいかわからないという人が出てくるのです。

この多様性を打破するキーになる技術は、機械学習であると考えています。この記事では詳しく書きませんが、コンピューターによって瞬時に統計的最適解を出せるので、一人ひとりの利用者の個性によって瞬時にコンピューターが空間を最適化させるような時代も来るのではないかと思っています。

複雑性に対する憧憬を取り戻すためのアート

僕としては、本来世界は複雑であり多様であるということを再認識するということは、とても大事であると思うのです。上にも書いたように、世の中はカテゴライズが可能であるという思想のもとではマジョリティとマイノリティーの二項対立が生まれ、生きにくい世の中になっていくからです。

そのために、一つの手段としてアートがあるのではないかと思います。アートを手段として捉えるか目的として捉えるかは人によって違いますが、僕はどっちもありだと思っています。

アートというのは知っての通り、複雑なものを複雑なまま表現するものです。見かけ上はシンプルに見えたとしても(便器に名前を書いて展示した作品でも)、その背景には文脈であったり作者の内なる複雑な精神が存在しているのです。

都市によって生まれた複雑性への排斥を、アートによって復興させる。排斥された複雑性を忘れないようにカンフル剤のように表現していくことが大事であるように思うのです。

僕が写真を撮るのは、そのような側面もあります。これまでは旅に出てキレイな観光スポットに行って絵葉書のような写真を撮ることにハマっていました。

しかし、それでは何も価値を生み出していないことを実感し、誰も撮らないけれども自分は面白いと思うような被写体を探すようになりました。この自分が好きだと思ったもの、興味があると思ったものを素直に表現することこそが複雑性であると信じています。

他の人にウケるから作ったものや写真は、商業的に成功するかもしれませんが世の中の多様性を広げません。そういう理由で、僕は他人にウケなくてもいいので自分が好きなものを撮ろう、自分が好きなことをしようと決めているのです。