僕たちは、日常生活の中で時折「美しい」と感じる場面、ものに出会います。しかしここで浮かんでくる疑問は、僕らは何に対して美しいと思うのか、何に対して美しくないと思うのかということです。
これを考えていくに当たって、僕は2つの軸を用いて「美しい」を分類して考えることを提案します。
目次
美的感覚の4つの象限
僕は美しいと思う対象について、まず「複雑・シンプル」と「自然的・人間的」の2軸に分割して考えていくことにしました。右上から時計回りに「自然的・複雑」「人間的・複雑」「人間的・シンプル」「自然的・シンプル」の順に考えていきます。
自然的・複雑
この象限には、例えば苔・使い古した茶碗・生き物などが当てはまります。苔・使い古した茶碗については、日本古来の価値観である「侘び・寂び」と結びついています。
ここでいう「寂び」とは、時間経過によって劣化したものを表しており、「侘び」とはそのような粗末なものを愛するという価値観です。外面上は粗末に見えたとしても、その内面に含まれている時間性を愛するという日本古来の価値観です。
また、生き物については自然が生み出した究極の複雑性を持ったアートと言えるのではないでしょうか。1mmにも満たないようなサイズの虫が、自ら動いたり子孫を生んだり人間などの外敵から逃げるようにプログラムされているのです。
人間的・複雑
この象限には、工場・オーボエ、フルート・アート作品などが当てはまります。例えば、工場に行って驚いたことは、そのあまりの複雑性です。いくつもの配管が無数に交差していながら、正常に機能しているようすは生物の体内をも想起させます。
この複雑性は、人が作った美的作品と捉えても良いのではないかと思います。工場には、複雑な計算やここに至るまでの年月、そして空間的複雑性を帯びておりひとつの美として捉えられます。
オーボエやフルートなども複雑な構造をしており、長い年月を掛けたことによる改良・工夫の結果であるとも言えます。こういった時間性を帯びたことで複雑化したものには、ある種の美を感じる構造を持っていると言うことが出来るでしょう。
人間的・シンプル
この象限には、「Apple製品・アコギ・ウェブアプリ」などが当てはまります。つまり、工業的プロダクトが多く当てはまります。
例えば、iPhoneやMacbookの外観デザインはとてもシンプルに美しくつくられています(もちろん、内部にもこだわっていますが)。シンプルさという軸で突き進んだ結果のプロダクトと言ってもよく、無駄なものが無いという点に僕たちは美を感じます。
シリコンバレーで禅がブームであるように、現代を牽引するITのハード/ソフト商品には、侘び寂び的でシンプルさを好むという傾向があります。シンプルであればこだわった箇所に意識を集中して注ぐことが出来るという面でも美しさがやどります。
他にも、アコギなんかはシンプルな構造をしていますが、だからこそボディの滑らかな曲線や、ピンと張った弦はより美しく見えているのです。ウェブアプリも世界で成功しているものは、ほとんどが非常にシンプルな作りになっています。
自然的・シンプル
この象限の例としては、水平線・磨かれた石・自然を記述する方程式などが当てはまります。例えば、僕らは海に行くと水平線を見て美しいと思います。もし、水平線の上に凸凹があれば美しいとは思わないはずです。
人間が意識してつくったプロダクトの直線には、僕らは美しさを感じにくいです。しかし、自然が生んだ直線や幾何学的模様には美しさを感じるのがとてもおもしろいと思うのです。
その他にも、波で磨かれて滑らかになった石や運動方程式のように自然界の法則をシンプルに表す数式も美しいとされます。
ここの肝となるのは、一見したところ複雑に満ち溢れている自然界が、実はシンプルな式で記述ができるというギャップが感動を引き起こすということです。複雑なものを複雑に表現することは比較的簡単。
しかし、複雑なものをシンプルに表現することは難しいのです。
これら4つの象限から見えてくるもの
上記では、2軸を使って二項対立的に分類をしてきました。さて、この中で僕らの現代の価値観は左下の「人間的・シンプル」なものに対する美に偏っていると思うのです。
何故ならば、都市化というのはそもそも工業的(人間的)なものであり、シンプルなものでないと世の中に普及していかないからです。しかし、人間が美しいと感じるものが減ってきてしまうのはいささか寂しい。複雑なものに対して美を感じることで、探求したい気持ちが出てくることは重要だからです。
なぜならば、自然や人間社会は恐ろしいほどに複雑であるからです。しかし資本主義的世界観では「わかりやすく、シンプル」なものを作ることが経済的成功のためのキーであり、複雑なものをシンプルに表現することが求められます。
しかしシンプルに慣れてしまうと、本来複雑なものを無理にシンプルに落とし込もうとすることで二項対立による紛争や闘争が勃発します。本来二項対立のシンプルなフレームではないにも関わらず、無理に二項対立に落とすことで本質を見失うことにもつながりかねるのです。
そこで僕は、複雑性を帯びたものをそのまま複雑に表現することを大切にしていきたいのです。つまり、思ったことや感じたことをなるべくシンプル化せずに発信していく。読み手に負担がかかるが得るものが大きいものです。
そして自然と人間の二項対立自体が、そもそも正しいのかにも疑問を持つべきだと思うのです。人間は自然の一部であると再定義すると、人間は自然の中における特別な存在ではなく、自然というエコシステムを形成するための手段になります。
そのように考えると、自然と人間という軸が消滅して「自然的で、かつ人間的な美しいもの」が生まれ得ることになります。この2つを融合した領域には可能性があると思っていて、自然の一部である人間存在がその生命で生み出した複雑なものを複雑なまま表現することが大事であると思うのです。