【コラム】テクノロジーの進歩は人間を人間の本質に近づける




ITの世界では、ディープラーニングと呼ばれる人間の脳構造を真似した、新しい技術がブームとなっています。これは人工知能とも呼ばれています。

さて、僕らは自然VS人間という西洋的価値観でものごとを考えるように教育されてきました。そのため、技術は人間らしさを奪い、行き過ぎた科学信仰が人間らしさを奪ってしまうと考えがちです。

しかし本当にそうでしょうか?僕の立場をはっきりさせておきましょう。「確かに技術が人をダメにするところもあるけれど、一方で技術は人間の本質に迫っていくという一面がある」と考えている立場です。

テクノロジーが引き起こす新しい「倫理」問題

僕らが人間の脳を真似して、「人工知能」なるものに着手していったときに、どのようなことが問題になるでしょうか?それは「倫理」という人間にとっての根本的な問題です。

例えば、自動運転という技術について考えてみましょう。有名なトロッコ問題というものがあります。これは、制御不能になったトロッコが走っていて、目の前には線路の分岐がある。このままだと分岐の先にいる5人がトロッコに引かれて死んでしまうけれど、分岐を切り替えれば別の分岐先にいる1人が死ぬだけですむ。

そして、分岐を切り替えるレバーはあなたの前にある。あなたは分岐を切り替えますか?切り替えませんか?という問題です。この問題は倫理の問題なので答えがありません。人をモノとして考えれば、5人より1人を犠牲にするという選択になるかもしれません。

しかし、命の価値を1人や5人という数字で判断しても良いのでしょうか?もしその1人が自分の子供や妻だったら?死ぬ人を選ぶ権利は自分にあるのでしょうか?

自動運転においても、全く同じ問題に突き当たることになるでしょう。急に人が飛び出してきて、ブレーキが絶対に間に合わない状況を考えます。

そのまま直進すると飛び出してきた人が死ぬ。ハンドルを切ると、道を歩いている人が死ぬ。果たしてどちらを正解とするべきなのでしょうか。

ディープラーニングや機械学習という技術は、これまで人間が行ってきた「判断」を統計的手法によって機械に代替させようという技術です。そして「判断」を機械に任せようとするならば、その「判断」が正しいかを検証していく必要があります。

しかし、世の中には絶対的に正しい答えが存在しない問題がたくさんあります。「機械が下した判断は正しかったのか?」を検証する過程で、「倫理的正しさとはなんだろう」ということを考えなければいけないことに気がつくのです。

テクノロジーが表出する圧倒的な「自然の複雑性」

人工知能研究のディープラーニングという分野では、人間の脳の構造をデジタル空間に再現し、コンピューターに計算をさせることで画像の認識や外国語翻訳をさせる研究が行われています。

現代のような電子計算機としてのコンピュータが本格的に開発されはじめたのは1940年代ですが、すでに1943年には神経生理学者のマッカロックと数学者のピッツが、動物の神経細胞を模した形式ニューロンモデルを示していました。これによって人工知能研究はスタートしました。

しかしながら、当時は非線形分離ができないなど計算アルゴリズム自体が不完全で、しかもコンピューターが高価かつ低スペックで計算が出来なかったのです。そのため、これまで一時的な人工知能ブームがあったものの、すぐに去ってしまいました。

ところが2000年代に入って状況が変わります。コンピューターの小型化・高スペック化が急激に進むとともに、インターネットの普及によって研究者たちの交流が増えてアルゴリズムの改善も進んでいきました。

いまとなっては、半世紀前に考えられないようなテクノロジーで満ちています。そして、世界がインターネットでつながったことで、世界中の天才たちが協力して研究できる状況にあります。

しかし、そんな世界中の天才たちが協力しているにも関わらず、いまだ人類は大腸菌のひとつもつくることができません。ディープラーニング研究では人間の脳を真似て計算させているものの、出来ることが非常に限られています。ドラえもんのような汎用人工知能が出てくるのは相当先になるでしょう。

そして、コンピューターに人間の脳と同じ計算をさせようとするには、人間の脳でどのような処理が行われているのか、さらに言えば、「人間の意識とは何か」ということを知らなければいけません。しかし、われわれは自分たちの意識とは何なのか、ということすら何もしらないままなのです。

人間の精神は意識と無意識で構成されているとフロイトやユングは唱えましたが、それが本当なのかは誰にもわかりません。寝ている間は意識がありませんが、では一体朝になると目が覚めるのはなぜでしょうか?一体、誰がわれわれの目をさまさせるのでしょうか?

テクノロジーが進化して人間に近い存在を生み出そうとすればするほど、人間とは何か?という本質的な問題に突き当たります。これはロボットもそうなんです。

ロボット研究では有名な「不気味の谷」という現象があります。ロボットが人間とは遠く離れた格好、例えばソフトバンクのペッパー君や、アイボなどのロボットなど、人間から離れた外見だと人は可愛がることができます。しかし、人間に顔を近づけていくと、ある点において人間は強い恐怖を感じるようになります。この強い恐怖を感じるポイントを不気味の谷と言います。

CGで合成された顔を見ると違和感が生まれるように、人間は人間に近いけれども何か違うものに対して恐怖を感じるのです。この不気味の谷を超えたロボットを作ろうとすると、そもそも人間の骨格はどのように出来ているか、あるいは人間は人の顔をどのように認識しているのか、ということも研究しなければいけません。

テクノロジーというのは、人間が持つ機能を外界の物質で代用する側面があります。人の目の代わりにカメラを生み出し、うちわの代わりに扇風機を生み出し、足の代わりに自動車を生み出しました。そのため、テクノロジーが進化して、人間としてのコアな機能をテクノロジーでつくっていくことは、「人間とはどのようなものなのか」という根本的問いを考えることと、ほぼイコールになっていくのです。

結局のところ、人工知能をつくるとかロボットをつくるということは、人間の真の姿に迫っていくということでもあります。そしてその過程で、人間の脳や体、また生物というものがいかに複雑であり、尊いものであるのかを実感していくことでしょう。

生物は100円ショップのハサミで簡単に殺すことが出来ますが、生物をつくることはたとえ無限のお金があっても不可能なのです。

サイエンスに教養がもとめられる時代

サイエンス・テクノロジーは現代社会において非常に強力な力を持っています。そのため、サイエンス・テクノロジーに関わる人であれば文化・歴史・哲学・倫理・アートなどの教養をベースとして、「人間とは何か」「人間はどうあるべきか」という根本的問いに対して考え続ける必要があると思うのです。

キリスト教をベースに社会が成り立っているヨーロッパでは、技術に対する拒絶反応(テクノフォビア)が強いとされています。それは、キリスト教において神は人間を愛しており特別な存在であるとされているからです。

そして、人間VS自然という二項対立の構造があるために、人間ではないロボットなどの技術は、共存するものではなく制圧するものであるというイメージがあるのです。これは西洋の庭にも思想として表出されており、「噴水」と呼ばれるものがそうです。

噴水は、本来上から下に流れる水を、下から上に吹き上げることで自然を征服しているのです。その点、日本はアニミズム的思想が根付いている国ですし、テクノフォビアもほとんどありません。日本のそういった文化的側面や、少子高齢化が進み人口が減っていく(=テクノロジーによるサポートが必須)ということは、プラスに捉えるべきであると思います。

現代においては専門家の時代であると言われますが、サイエンスやテクノロジーを突き詰めていくほど、「人間とはなにか」という根本的問いに向き合わなければいけない。それを考えると、「テクノロジーが人間性を奪う」という発想はどこか違うのではないかと思うのです。