数年前にベストセラーとなった「ホモサピエンス全史」。2020年1月現在、この本の著者であるユヴァル・ノア・ハラリさんが新著を出したことが話題となり、積ん読であったこの本を手に取ってみました。
この本、とても面白いです。一言でいえば人類史の本なのですが、人間の歴史を知ることで、いまの世界の状況や自分の身の回りのことを俯瞰できるように感じました。
目次
一番驚いた内容
驚いたという表現が正しいのかどうか分かりませんが、ハッと目が覚めたのは「人間が地球最強の動物になれたのは、虚構をつくりだせたから」という内容です。
そう、動物には無くて人間にあったものは、「虚構をつくりだし、それを信じる」ことなのです。
大人数の協力を可能にした「神」という虚構
かつての人間は肉体的に強いわけでもなく、知能もほとんどチンパンジーと同等レベルでした。それにも関わらず、地球最強の生物になれた理由は「大人数で協力できたから」です。
そして、大人数で協力することを可能にしたのが「神」や「宗教」などの虚構であるというのです。
人類学的には、組織としてうまく機能するのは最大でも150人ほどまでと言われています。それは何故か。150人を超えると、組織の成員がお互いの顔や性格などを把握することが難しくなり、信頼関係を結べなくなるからです。
実際、大企業に勤めている人は、社内で名前も顔も知らない人のほうがが圧倒的に多いでしょう。街ですれ違っても全く気が付かないとおもいます。
サバンナの世界において、自分が知らない人間は他の動物と同じく、何をするかわからない敵です。同じ人間だから味方だ、と思えません。(実際、世の中には必ず人に害をなす悪人が存在します)
しかし、人間は150人を超える組織を当たり前のようにに作っています。国民国家や大企業などがその最たる例です。なぜそれができるかというと、憲法や法律、ビジョンやミッションといった「虚構」をつくり、全員が信じているからなのです。
古代において重要な役割を果たした「虚構」は宗教でした。つまり「あなたのことは顔も性格も知らないけど、同じ神様を信じているから仲間だよね」という考え方で、人は大人数で協力することが出来るようになったのです。
「虚構」という観点で現代を考えてみると…
人間の社会の根本には「虚構」がある。その観点で現代を見てみると、面白いことに次々と気が付きます。実は以下の物はすべて虚構なのです。
人権
そもそも人権という言葉が一般に使われ始めたのはフランス革命以後です。今でこそ「人権侵害だ!」という言葉をよく耳にしますが、そもそも人権というのは生まれながらに人間が持っている「であろう」と信じているものに過ぎません。
それは裸でサバンナに立っていれば分かります。ライオンに対して「僕には人権があるんだ!」と言ったところで、すぐに食べられてしまうでしょう。
この人権という考え方はキリスト教と親和性が高いのが特徴です。なぜならば、キリスト教では人間は神が特に愛している特別なものであるという価値観に根ざしているからです。
いまは日本人であっても「人権」という言葉を使いますが、実は「人権」とは西洋から輸入された虚構の概念にすぎないのです。
お金
日本は拝金主義から未だに抜けられていませんが、一歩引いてみるとお金も虚構そのものです。硬貨も紙幣も食べられるわけではないし、何かの役に立つわけではありません。つまり、お金というものは本質的な価値というものを持っていません。
お金とは、国民全員が「価値があるものだ」と信じているからこそ食料などと交換してもらえるものであって、それ自体には価値はありません。
では、なぜ全員がお金の価値を信じることが出来るのかと言うと、国がお金には価値があると保証しているからです。その国という概念自体も虚構なんですが。
通貨偽造罪が非常に重い罪として扱われているのは、国が保証しているものを偽造する、つまり国に対する反逆行為だとみなされるからです。王政の帝国であれば、王に歯向かうことになるのです。
会社
会社というものもまさに虚構です。例えば、社長が死んだ場合に会社は消えるのでしょうか?そんなことはありません、次に誰か新しく社長になって事業は継続するでしょう。
では、すべての従業員がいなくなったら会社は消えるのでしょうか?それも違います。創業100年以上の会社などは、創業時のメンバーは誰ひとりとして現役で働いていないでしょう。
では、役所にある会社設立時の書類を燃やせば会社は消えるのでしょうか?それもまた違います。いまはデータ化されていることでしょう。
会社を消す方法はただ一つで、「会社は消えた」と全員が信じればいいのです。役所の登録上は残っているかも知れませんが、実質的に会社がなくなるとは、そういうことなのです。
すべて「虚構」という気づきはかなり刺激的だ
このように、私達が当たり前のように信じていたことが「虚構」だったと気がついたことで、いろいろなものを疑いだしてしまいました。
例えば、ほとんどの社会において人同士の助け合いは素晴らしく美しいものだと考えられています。しかし、それはひとつの価値観であり、社会を成り立たせるためのルールであるとも感じてしまいます。
また、人の命と動物の命が天秤にかかっているとき、果たしてどちらを選ぶのが正解か?人権というものが虚構であると気がついてしまうと、この簡単そうな問いの答えを出すにもいろいろと考えてしまいます。
もっといえば、愛もひとつの虚構です。ロマンチック・ラブは西洋から輸入されたものであり、絶対的な価値観ではありません。愛は美しい、というのは本当でしょうか?
これまでの人類の歴史を振り返ってみると、限られた資源を巡った虐殺ばかりでした。イギリス人はオーストラリアのアポリジニを迫害し、スペイン人は中米南米の先住民を迫害しました。
それを踏まえると、人間の本来の性質である「闘争」というものを引き起こさないように設定された虚構こそがキリスト教の隣人愛であり、ロマンティックラブであるのではないかと見ることが出来るのです。
このように、社会を成り立たせるための虚構を発見すると、そうだったのかという好奇心や興奮だけでなく、少しの恐怖も感じます。
自分の価値観の足元にあったものが、実は虚構であったというのは怖いものです。やはり、毎日社会と関わるという「具体的かつ現実的」な部分と、人類史を始めとした学問などの「抽象的かつ相対的」な部分を行き来することが重要だと感じたのでした。