暗黙知という言葉は、言語化できないノウハウやテクニックという意味でよく使われます。最近知りましたが、対義語は形式知というそうです。
なぜ「暗黙知」と「形式知」をテーマに記事を書こうかと思ったか。それは最近機械学習を仕事で使っている中で、「知」とはなんだろうということをぼんやりと考えていたからです。
この記事では形式知と暗黙知について考察していくことで、これからの社会で大切になってくる「暗黙知」の重要性について再認識をしたいと思います。
暗黙知とは経験や勘に基づく知識のことで、個人はこれを言葉にされていない状態でもっている。経営学者の野中郁次郎は、日本企業の研究において暗黙知をこのように定義し、形式知の対概念として用いた。例えば、個人の技術やノウハウ、ものの見方や洞察が暗黙知に当てはまる。(コトバンクより)
形式知とは、文章や図表、数式などによって説明・表現できる知識のこと。明示的知識ともよばれる。経営学者・野中郁次郎が日本企業の知識創造に関する研究において、暗黙知の対概念として用いた。(コトバンクより)
目次
形式知とは、すなわち共有知である
形式知というのは言語化が出来るナレッジです。つまり、本に書いたりウェブ記事に書いたり動画にするなど様々な方法で人に広く伝えることが出来るものです。
しかしながら、ウェブが世の中に浸透する以前は図書館に行かなければ形式知にアクセスすることが出来ませんでした。数万冊ある蔵書の中から、欲しい情報がどのカテゴリに分類されているかを判断し、本棚の前に行って背表紙を見ながら一冊一冊本を開いて確認していたのです。
当然、世の中のすべての本が置いてある図書館など存在しないので情報には限りがあります。日本の本しか置いていなければアメリカやヨーロッパではアクセスできる情報にたどり着くことは出来ません。そう考えると、あれだけ広くたくさんの本がある図書館であっても、かなり狭い情報しか得ることが出来ないことに気が付きます。
しかしみなさんご存知のように、ウェブの普及によって世界は瞬時につながることが出来るようになりました。世界中の人が情報を発信し、既存の書籍は電子化され、文章・画像・動画などさまざまなメディア形式で情報が共有されるようになりました。
いまや調べたいワードがあればGoogle検索をすることによって数秒で調べることが出来ます。図書館に行って、カテゴリを予測して、本棚に移動して、背表紙を見て、本を開いて内容を確認するという手間がどれほど大変だったかがわかるでしょう。
ウェブの普及によって起きたことは、形式知≒共有知となったことです。つまり、言語化や画像化することができる形式知はウェブの世界に吸収されてだれでもアクセスできる共有物になったのです。このことから何が言えるかと言うと、形式知そのものの価値は相対的に落ち続けているということです。
これまではたとえ形式知であっても、日本からヨーロッパの本に書いてある情報にアクセスすることが難しかったので、ヨーロッパ在住の人が持つ現地ならではの情報が価値を持っていました。しかし今はウェブで誰でもアクセスできるうえに、翻訳技術の発展によって簡単に情報を得ることが出来るので価値が下がっているのです。情報のコモディティ化です。
見方を変えると、暗黙知の重要性がより高まった時代になっていると言えるでしょう。誰でもアクセスできる情報だけを持っている人は、今の時代あまり重要ではないのです。
形式知と暗黙知の性質
共有知と暗黙知は具体的には、どのようなものでしょうか。例えば、「人間の顔ってどのような特徴がありますか?」という質問に対して「人間の顔には、目が2つ・鼻が1つ・口が1つ・耳が2つ付いている」と答えることが出来ます。これは形式知です。
一方で「あなたはどのように父親の顔を判別していますか?」と聞かれると言語で答えるのが難しいのではないでしょうか。目の色?耳の形?鼻の大きさ?口の大きさ?といったように、言語化が難しいけれども、なんとなく分かるというのが実態でしょう。これが暗黙知です。
そして、暗黙知は専門職によく存在するようです。明確に言葉には出来ないんだけど、なんとなくこうすると上手くいくのが分かっているというものがあるのです。例えば、将棋の世界や研究の世界などはまさにそれでしょう。将棋棋士の羽生さんは「大局観」と呼んでいます。
僕の例でいうと、機械学習のハイパーパラメーターのチューニングや、数学の因数分解などが当てはまります。こういった暗黙知は、なぜうまくいくのかをうまく説明できませんが、なんとなく分かるのです。
研究とアートは暗黙知をつくるプロセスである
研究とアートに共通することは、人がやっていない領域に飛び込むという点です。研究の場合、論文には新規性が求められます。他の人がすでに研究して分かっていることを新たに論文にしても価値がないからです。アートも同じで、評価されるアートとは新規性があったり他の人には無い自分ならではの視点を表現したものです。
ビジネスの世界ではこれまではデザインとエンジニアリングが重要視されていました。デザインとエンジニアリングは既存の知識や技術を使って、社会に普及しやすいようにシンプルで使いやすいもの、美しいと感じるものをつくるプロセスです。研究やアートと違って、多くの人に違和感を抱かせるようなものはつくってはいけません。
そのおかげで、世の中にはそこそこ見栄えが良く、そこそこ動くものが増えました。しかし、そこで起きたことはプラットフォーム化でした。Photoshopで誰でも簡単に顔を修正できるようになったり、WordpressやWixで誰でもウェブサイトを作れるようになったことで、そこそこ美しく、そこそこ機能するものは誰でもつくれるようになったのです。
ここで大事なのは、そのプラットフォームの上に置くコンテンツにニッチ性・専門性をもたせるということです。暗黙知とは言語化できない経験に基づくものだと書きましたが、他の人がアクセスできない、知ることが出来ないという意味も含めると、研究者やアーティストは暗黙知を持っています。
もはや誰もがアクセスできる形式知には大した価値がない時代だからこそ、共有知の外に飛び出す研究やアートというプロセスが重要なのです。当然、誰もしらない領域への挑戦なのでそれが役に立つかはすぐに分からないことが多いでしょう。悲しいことに、そのようなリスクを犯すことができる資金力ある企業がますます伸びていくのは世の流れでしょう。
まずは形式知、そして暗黙知
形式知が共有知になったことで、ある程度までの学習コストは下がりました。いまは世界中の有名大学の講義をオンラインで無料視聴できます。ここで大事なのは、形式知で終わらせずに暗黙知の領域に昇華できるように経験を積むことであると思います。
異業種交流会とやらに意味はあるのか、という議論を耳にしますが形式知がある程度積み重なっており、自分の中に目的意識があるのであれば意味はあると思います。しかし、形式知や目的意識が全然無いのに参加しても異業種の人から暗黙知を知ることは出来ません。
素人が量子力学のシュレーディンガー方程式を見ても意味がわからないように、基礎的な形式知を身に着けているからこそその先の暗黙知が分かるということがあります。
まずは、形式知を理解した上で経験からしかわからない暗黙知を身に着けに行く。大学教育では学部の初期に教養・基礎教育が必ずあるように、研究して暗黙知を貯める前に「いまは何が出来て何が出来ないのか」を知るためのインプットが必要なのです。
このインプットをせずに人と会ったとしても、得られる情報はGoogleを使えば数秒で出てくる(しかも専門家の)情報しか無くなってしまうでしょう。
おわりに
自分が最近インプットした情報は形式知か暗黙知か、ということを振り返るのは良い習慣かなと思います。もちろん、形式知も大事です。これは暗黙知をつくるためのベースになるものです。ただ、形式知を集めることだけに集中してしまうことは問題であると思います。
暗黙知を持たない人間は、Googleに負けてしまいます。形式知を集め、それに自分なりの解釈をつけたり、形式知が及ばない誰も知らないことを知ろうとする試みこそが今後活躍する上で大事だと思うのです。
僕自信も、つい情報メタボ(情報のインプットばかり)になりがちなので気をつけていこうと思います。こうしてブログにアウトプットすることや実際に経験してみるということで情報メタボにならないようにしていくことが重要そうです。