「頭がいい人」と「頭が悪い人」は何が違うんだろう?ということを最近考えていました。そして、これまでの経験や出会った人などを元に分析していくと、一番大きな違いが分かってきたので、記事にまとめてみました。
結論から言えば、頭がいい人は「世の中の複雑さ」を認め、理解しようとしている人。頭が悪い人は、現象の表面しか見れない人です。
目次
そもそも「頭がいい」とは?
まず「頭がいい」とはどういうことか。世の中には「頭がいい人」の定義は数多くありますが、ここでは以下のように定義します。
「自身の知識と思考力を活用して課題の本質(原因)を見抜き、有効な解決策を導き出す力がある人」
例えば「会社の残業を減らしたい」という課題は多くの企業が持っていると思います。そこで、そもそも残業が多いのはなぜかを的確に分析し、それを解決するにはどうすればいいかを導き出せる人は「頭がいい」と思います。
「頭がいい人」と「頭が悪い人」の最も大きな違い
上にも書きましたが、
- 頭がいい人は、物事が複雑であることを理解して、多面的に現象を捉えようとします。
- 頭が悪い人は、物事の表面だけを見て結論を出します。
例えば、上記の残業の例で具体的に考えていきましょう。
一口に「残業が多い」とは言っても、その原因については多くの要因が仮説として考えられます。例えば、
- ビジネスモデルが貧弱で収益率が悪く、長時間労働しないと利益を出せない
- 上司よりも先に帰れない企業文化がある
- チーム内の仕事の分配量に偏りがある(一部の人に仕事が集中する)
- 顧客が無茶な要求をしてくるのでそれに対応しなければいけない
ざっと思いつくだけでもこれだけあります。ビジネスモデル・企業文化・マネジメント・顧客との関係など、現実の課題には数多くの要因が複雑に絡み合っているのです。
「頭がいい人」は、課題に潜む複雑な要因とその関係性を理解するために、ひとつひとつ解きほぐしていきます。
一見、時間がかかって効率が悪いように思えるかもしれませんが、課題の本質に迫るに要因を可能な限り洗い出して、それらの関係性を見に行かなければいけません。
「頭が悪い人」は「社員のスキルが足りないからだ!」「マネージャーが無能だからだ!」と短絡的に考え、表面的な解決方法を実行しようとします(しかも、大抵は根拠がない主張である)。
また「頭が悪い人」は権力や知名度にも弱く、「日本の生産性が低いのはIT活用が遅れているからだ」と偉い人が言ったら、それをそのまま鵜呑みにします。
確かに、そういう面も要因としてあるかもしれませんが、ITを存分に活用せずとも経営が成り立っている老舗のお店などはたくさんあります。
物事を表面的に見て、偉い人が言ったことをそのまま信じる。それが「頭の悪い人」の特徴と言えるのではないかと思います。
週3日で労働生産性があがるか
日本マイクロソフトが週3日休にしたところ、生産性が4割も上昇したとニュース(日経XTECH)になりました。このようなニュースを見たとき「頭がいい人」は、なぜ週3日休で生産性が上がったのか多面的に要因を捉えようとします。
- 休暇が増えたことで、仕事以外の勉強時間が増えたから?
- ITツールの導入で労働生産性が上がったから?
- 業務フローを週3日前提のものに刷新したから?
このようにさまざまな仮説を立てながら「自社でやったらどうなるか」をシミュレーションしようとします。
マイクロソフトといえば、世界でトップクラスの大企業であり、働く従業員は超優秀です。そして、ビジネスモデルも大変に優れており、十分すぎるほどの資金力や余裕があるでしょう。
そのような「特殊」な会社であるにも関わらず、そういう背景を理解できない人は一定数いて、下のような主張をはじめます。
「ほれみろ、もっと労働者を休ませないとダメじゃないか!うちも週3日休にしろ!日本企業は働かせ過ぎだ!」
前提として「社員が幸せな気持ちで働ける環境をつくるべきだ」というのは、非常に重要なことであると思います。僕はそこに異論は全くありません。
ただ、それを実現させるための手段として「マイクロソフトがうまくいったから、うちも真似しよう」というのは、あまりにも短絡的で前提条件を無視しすぎです。
他にも例えば、知名度があがってきた「テレワーク(リモートワーク)」についても、良いか悪いかで単純に評価することが出来ません。
例えば、IT系の仕事であればテレワークとの親和性が非常に良いですが、営業系の仕事であれば対面で話したほうがスムーズなことが多い。
業種形態や職種、企業文化によって何が「良い」のか「悪い」のかは異なります。要するに複雑なんです。
これまで僕が出会った優秀な人は、「なぜ失敗したのか」「なぜ成功したのか」という問いを立てながら、背景から理解しようとしていました。
「頭がいい」と「頭が悪い」の違いは、このように現実が複雑であることを理解し、それを理解しようとするかどうかにあると思うのです。
まとめ:複雑性を排斥した先にあるもの
複雑性を理解すべき対象をどんどんシンプルにしていくと、行き着く先は「二項対立」です。要するに「良いか」「悪いか」です。本来であれば、事物に対して絶対的な「良い」と「悪い」は存在しません。
正義の対義語はまた別の正義だ、という言葉は言い得て妙だと思います。
この「良いか」「悪いか」という二項対立に落ちた状態が生み出したのがナチス・ドイツではないでしょうか。ユダヤ人は、アインシュタイン、ラリー・ペイジ、スティーブン・スピルバーグといった素晴らしい人材を数多く生み出しています。
もちろん、ユダヤ人の中にはいい人も悪い人もいます。お金持ちも貧しい人もいます。男も女もいます。本来は「ユダヤ人」といってもその中身は複雑性に満ちているのです。
これを「ユダヤ人は悪だ」と二項対立の片方に落としてしまった結果、ああなったのです。人は何かしらのくくりをつくって差別をしたくなる動物ですから、二項対立で物事を考えると、そうなりがちです。最近だと韓国への意見も二項対立になりがちだと感じます。
ひとつの現象を表層的に捉え、その複雑性を理解できない(しようとしない)と間違った行動をしてしまいがちです。もちろん、人間の脳のスペックには限界があるので、本当の意味で複雑性を理解できるわけではありません。
しかし、複雑さに対する理解力というのは人によって差があるのが事実なので、より複雑な世界を理解しようと思うのが良いのではないでしょうか。
二項対立が思考形式として張り付いてしまうと、マスコミの偏向記事に感情的にさせられてPV稼ぎに利用されたりするのです。
アートが社会批評性を持ちながら価値あるものとして存在してきたのは、そのような一面も大きく関わっているように思うのです。
長文失礼しました。