【コラム】近代科学によって僕ら人類の価値観はどのように変わったか(その1)




現在進行系でテクノロジーが猛烈なスピードで進化しているのに、なぜ僕らは苦しみながら生きているのだろう。漠然としたその問いが僕の頭から離れません。むしろ、時代が進むにつれて不幸になっているような気さえしてきます。それはなぜでしょうか。

この問いに対して答えを出すべく思考を深めていくには、そもそも現代の人類が持つ価値観はどのような文脈を経て今に至るのか、ということをしっかりと理解する必要があります。いまに至る文脈を理解せずに、目の前に山積する問題を挙げて「これが悪い、あれが悪い」と言ったところで、たとえそれらを解決したとしてもあらたな問題が出てくるだけ。

大事なのは、根本的な人類の価値観の流れを知り、それを良い方向に引っ張っていくことではないでしょうか。例えば、「僕が不幸なのはお金がないからだ。経済が停滞しているせいで僕は不幸なんだ」という人がいます。しかし、資本主義的成功なくして幸せになれない、という価値観は僕らが教育という洗脳で刷り込まされただけであって、本質的では無いのです。

そこでこの記事では、近代科学の原点であるプラトンやアリストテレスなどの古代ギリシャの哲学者から、ルネサンス期に活躍したデカルトとベーコンについて紹介していこうと思います。

かつて人間と世界は一体であった

主観的・客観的という言葉があります。この主観・客観という考え方は近代科学がはじまる以前は一般的なものではありませんでした。近代科学がはじまる以前の世界では、自分自身である「主体」と自分以外の「客体」というものを分けて捉えていなかったのです。

科学が発達していなかったので、身の回りには理由が分からない神秘的なことばかりです。どうして火を食材に通すと安全に食べられるかは分からなかったし、なぜ月はりんごのように落ちてくるかが分からなかったのです。自分自身は世界そのものであり同一であった。つまり世界に参加しているという意識だったのです。

人間にとって、尊いものや圧倒的なものと「同化する」ことは安心や幸福につながります。愛する人と抱き合って幸せを感じたり、大好きな自分の愛車を毎日磨く好意は、尊いもの・圧倒的なものと同一になりたいという人間の根本の部分なのです。

しかしながら、特に15〜16世紀のルネッサンスから始まる近代科学では、人間は観測者として自然(世界)とは切り離して考えられます。そして、世界を要素の集合とみなして細分化した上で思考をすることで、ものごとを「物体」と「運動」によって記述することが可能になりました。

これによって、これまで神秘的であった世界は「人間の外部」のものとなり、現象の理由が分かるにつれて脱魔術が進んでいきます。火を通すと悪い菌が死ぬので安全に食べられると分かった瞬間に、それは神秘性を失うのです。これは醒めた思考、あるいは観測する思考と言えるでしょう。

これまで大いなる世界と一体だった人間は、世界と分離されて1つの小さな粒子のような不安定なものになってきたのです。ここから現代のストレス社会につながっていると考えるのは言いすぎでしょうか。僕は言い過ぎではなく、自身を自然とは別であると認識するところが人間に歪みを生んでいると考えています。

プラトンとアリストテレスによって作られた近代科学のベース

本格的な近代科学がはじまったのはルネサンス期ですが、近代科学のベースとなる哲学は古代ギリシャの時代に登場していました。特にプラトン的思想とアリストテレス的思想は、それぞれデカルトの純粋理性とベーコンの経験主義へと接続されていきます。

プラトンはアリストテレスの師匠にあたる存在です。プラトンは、真理へとたどり着くためには感覚データなどの曖昧なものを無くして、純粋理性によってものごとを見て考えることが大事だと考えていました。一方でアリストテレスは外界から集めた情報を収集・分析して一般化することで真理にたどり着けると考えていました。

近代科学はこの2つの考え方がベースになっています。また、アリストテレスは真理とは「丸さ」や「重さ」といった形相(物質ではなく状態)にあると考えたことで、本質は物質ではなく非物質なものとして世界の背後に存在するという価値観をもたらしました。

物質として存在しないものに価値を置く、というのは恐らく人間特有のものであると考えます。少なくとも人間以外の動物にとっては、目の前に存在する物質こそがすべてであるという感覚でしょう。僕らが「心」という目に見えないものをどこか尊いものであると考えるのも、アリストテレスの「形相」という思想からリレーされたものなのです。

デカルトとベーコンによる近代科学の序章

プラトンとアリストテレスの思想を受け継いだデカルトとベーコンは、後に近代科学の基礎となる思想を打ち出していきます。デカルトは純粋理性、とりわけ「数学」による思考こそが真理へと近づく手段であると考えた一方で、ベーコンは自然をむりやりある状況に追い込むこと、つまり「実験」によって、自然からフィードバックを得て世界を紐解いていこうと考えていました。

このデカルトの数学と、ベーコンの実験が結びついたことで、一つの転換点が訪れます。それは、世の中の事象をなぜ(Why)ではなくどのように(How)で捉えるようになりはじめたということです。

つまり、ボールを空中に投げればいずれ下に落ちていきますが、それが「なぜ下に落ちるのか」というWhyだけではなく「どのように落ちていくのか」ということに注目され始めます。例えば、物体の運動がニュートンの運動方程式によってHowが記述されるようになるのです。

この運動方程式は実験によって導かれて数学によって記述されます。この数学と実験という2つの結びつきが、今後の科学に大きな影響をもたらすことになりました。

デカルトとベーコンをはじめとしたルネサンスでは、古代ギリシャの哲学に対する批判がありました。すなわち、ただ認識論の問題としてものごとを考えているだけでは、新しいことを勢いよく知ることは出来ないと。

そこで人工的な環境をつくりだす、つまり実験という形で自然に対して拷問を行うことで積極的に自然と向き合おうと考えたのがベーコンでした。

次回へ続きます。