【コラム】就活で感じた「一貫性」を求めてくる違和感




人とは常に変わり続けているものである、というのは立ち止まって考えると理解できると思う。

例えば「細胞」という視点でみれば、新陳代謝を繰り返すことで、呼吸をして血液を循環させることで、常に入れ替わっているといえる。また「思考」という視点で見れば、日々の生活で新しい体験をしたり、様々な人との出会いを通して考え方が変わることもよくある。

しかしながら、就活では「一貫性」というものを求められてきた。言い換えると「軸」ともいう。就活の軸はなんですか?という直接的な聞き方もあれば、過去の行動を掘り返してそれを抽象化することで、すべての行動に一貫して潜む共通項を探られたりもした。

僕はここに違和感を感じていた。そもそも、人間はそこまで一貫している生き物なのか?と思っていた。

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一貫性を求める心理の根本にあるものは都市化と同じではないか

では、なぜ彼ら面接官や企業の人間は一貫性を求めるのだろうか?要するに、一貫性があると将来を予測しやすいからだ。中学生から大学卒業までずっとプログラミングをやっているのであれば、今後も取り組み続ける可能性が高いだろう。

エンジニアとして採用したものの、やっぱり別のことがやりたくなって辞められては困るのだ。だから、なるべく将来続けてくれるだろうと思いたいが為に、これまでの行動の「一貫性」というものを求める。

また、応募者を理解したつもりになれるのも大きいと思う。例えば、ずっと数学が好きで大学では物理の研究に没頭していたのであれば、きっと感覚よりも論理的に考えることを重要視するだろうと理解したつもりになれる。

一方で、小さいときからピアノを演奏したり絵を描くことに熱中していたのであれば、自分の考えや感覚を表現することがとても好きで、創作活動には意欲的な人だろうと理解したつもりになれる。

しかし、本当にそうだろうか。確かに現在は過去の積み重ねで出来てるとはいえ、人間は常に変化しているということを考えると矛盾に溢れた存在であるように思う。つまり、人の将来などまったくもって分からないのだ。

ただ、採用をしたにも関わらずすぐに辞められてしまっては採用コストをペイできないし、採用担当は上司や役員に怒られてしまう。

だから、なるべく将来を予想できるような手がかりを見つけるために、理解したつもりになれて、その人を採用した説明になる理屈は必要だ。それは理解できるが、そういった建前を忘れているのではないかというのが僕の感じた違和感だ。何度も言うが、人間なんて矛盾だらけだし、常に変わり続けている。

こういった人間性に予測可能性、つまり一貫性を求める心理というのは、都市が計算によってつくられていることに非常に似ていると思う。要するに、ああすればこうなる、という未来予測が出来ることが一人前とされるのが都市である。

道路は突然穴が空いてしまうといった予測できない事態をなるべく排除する方向でつくられており、このようにつくればこうなるだろうという思惑や計算が裏には存在する。だから、もし道路にいきなり穴が空いたら「設計者」が怒られるのだ。

一方で、田舎や山の中にいきなり穴が現れてころんだからといって誰のせいにもできないだろう。いわば自然というものはそういう予測不可能なこと、計算で将来がわからないものに満ちている。しかし、徐々に都市化が進むにつれて計算による未来予測というものが我々にとって重要なものとみなされるようになってしまった。

僕は人間をなにか神聖で特別なものだとはこれっぽっちも思っていないが、毎回正確なお釣りを返してくれる自動販売機のように行動や思考に一貫性を見出して理解したつもりになるのは傲慢だと思っている。

僕は人間をリスペクトしているわけではないが、生物はリスペクトしている。そして生物というのは実に非合理的で繊細で複雑なものであると思う。そこに無理やり理屈をつけようとする違和感がどうしても拭えないのだ。

都市というのは、生物でさえ制御の対象とされる。だから野良猫や野良犬は排除されてしまうし、邪魔な場所に気があったら引っこ抜くし、街中にイノシシなどの野生動物が現れたらやはり捕獲される。計算可能性や制御可能性という視点で人を見ること自体がどこかおこがましいもののように感じる。

矛盾を受け入れるという重要性

一貫性を求められることを受け入れてしまうと、人は自分が設定したルールにしばられる。つまり、自分はこれまで創作が好きだったから、今後もそれをやり続けないといけないと考えてしまうようになる。(ときには無意識のレベルで)

何度も言うようだが、人は常に変わるものなので一貫性よりも、好奇心や自分の興味を大事にしたほうが良いと思うのだ。そしてそのうちに、自分が続けられるものやその領域がボンヤリと浮かんでくるものと思う。

僕自身を振り返ってみると、物理学者に憧れて大学に入ったものの肌に合わずその道はやめて、就活もせずにバックパッカーをしながらフリーターをしていた。その後、東京で就職をしたものの、急にドイツで暮らしてみたくなって入社1年で退職してワーホリに行って、出戻りをしてウェブエンジニアやデータアナリストをしている。

コツコツと一貫したキャリアを積むことを良しとする日本企業からすれば、全力で敬遠したくなる人材だ。実際、出戻りをする前に転職活動をしていろいろな企業を受けていたが、僕の行動原理がよく理解できないみたいだった。

もちろん、自分の心を殺せばキャリアや行動の一貫性は保てます。他に興味が沸いたことができても、その気持ちを抑えて今やっていることをやり続けるという選択肢もあるでしょう。でもそれでいい結果になる人はあまりいないのではないかとも思うのです。

僕がバックパッカーをしようと思ったのは、大学の有志ゼミでバックパッカー経験者の話を聞いて面白そうだと思ったからです。本当にそれだけで、バックパッカーを通してどんな力を得たいとか、そんな計算などはしていませんでした。

ゼミでの出会いというのは偶発的なものですし、自分でコントロールできることではありません。偶発的な出会いでこれまでの行動原理が崩れることもよくあることですし、振り返ればそれが分かるかもしれませんがそれが次にいつ起こるのかは誰にも分かりません。

そういう偶発的要因によって一貫性が崩れたときに生まれた「矛盾」をポジティブに捉えられることが非常に重要だと考えています。自己啓発的な言い方をすれば、過去を見て今を考えるのではなく、今感じていることだけを重視すること。そして、未来なんてどうせわからないのだから、計算をしすぎずに今を重視すること。それが肝要ではないでしょうか。

理屈というのは複雑な現象を型にはめようとしているだけ

「理屈と膏薬はどこへでもつく」という言葉は言い得て妙であると思います。要するに、なにか現象が起こった際にそれを説明できる最もらしい理屈はついてしまうものなのです。

それはそのはずで、一定の原理に則って現象が発生しているとしても、我々は原理を目で見ることはできず、現象しか見ることができません。だから理屈の正しさを確認することは不可能で、我々に出来ることはどれが一番「ただしそうか」を見積もるくらいです。

しかも、現象の観察に関しても不十分です。つまり、我々の目は可視領域の波長しか見ることができないし、耳は20kHzくらいまでしか聞き取れません。実は人間は世界を正確に認識できているようでいて、できていないのです。

何が言いたいのかと言うと、複雑で法則性がなさそうに見える現象に対してそれっぽい理屈をつけて信じ込むということは社会で必要になる場面もありますが、それが本質ではないことを心に留めて置かなければならないのです。

世の中は善と悪でシンプルに分けることなんて到底できないし、視点は無限にあります。そのような複雑であり一貫性が見えない状態を愛するということが、もっとビジネスの世界で進んでもいいと思うのです。