冬になると, 特に気温が下がることもあってか人肌寂しくなってくる. ましてや飲み会など人と会う用事が多かったりすると良くおこりがち.
誰でも, 寂しいとか鬱々とした気持ちになることがあると思うんだけど, そんなときに「いまが最悪だからこれからは上がるしか無い」という言葉はどこか薄っぺらく感じる.
確かにずっと鬱々としているとメンタルが病んでしまうので良くないと思うが, 世の中は諸行無常だし, やまない雨はないというように, いつまでも絶望的な時間が続くということはそんなに無いだろう.
僕は人寂しくなったり鬱々とした気分になったとき, 話したいと思った人に連絡を入れたりはするが, それだけではなくとことん絶望や鬱々とした感情を掘り進んでやろうと考える.
例えば、凛として時雨などのダークで鬱々とした世界観の曲が好き. ひたすら自分という存在の孤独さと寂しさを感じながら, この母なる大地と同一化したいと思うのが一種の幸福でもある.
人間の世界とは隔絶されたところで, ひっそりと大地の一部になっている石になれたらどれだけ幸せなのだろうか.
いまだ僕にとって大地や世界の自然というものは, 畏敬の対象であるので, 寂しさを感じたときに同一化したいと強く思う. 大地とか, 生命の連環とか, 宇宙とか, 花鳥風月とか, そういったモノと同一化することによる安心感を得たい.
人間の寿命はせいぜい100年と少しくらいだし, 非常に不安定で関係性もよく変わる. 鬱々としたときに世界との一体化を望むのは, そういった不安定で, はかない人間からの脱却という渇望のいち側面なのかもしれない.
人間同士のネットワークに対する強固な関係を感じられなくなったとき, 僕は自然に対するつながりを渇望する.
果たして, 毎日充実して幸せな気持ちで過ごせていれば良いのかと言うと, どうもそうでは無いような気が高校生くらいのときからしている.
幸福とは希望と絶望の差分であると言えると思う. ようは絶対量ではなくて変化量が幸福や不幸の感情に結びついているということだ. だからこそ, 絶望や悲しみも人生に必須なものだと受け止めなければ, 本当の幸福を実感することはできないだろう.
そして, 辛いことを経験したひとというのは, 人の痛みに敏感になる. もちろん, 一人ひとりは違う人間なので, いくら言語化してもその人の本当の痛みはわからないし, 治してあげることも出来ない.
ただ, 近い経験をすることで共感が生まれるし, 相手の痛みを自分ごととして捉えるようになることは否定できないだろう.
鬱々とした感情, 自然と同一化することへの渇望, 自分は何者なんだと問い続けた先にある絶望, いつか死ぬという生物にとっての苦しみ, そういったものを捉え, 逆算してこそ生の輝きが見えるように思う.
人寂しく, 鬱々としているときは, あぁ生きているなぁということを, 悉く実感するということである.