【コラム】政治的判断に対する一般人の見方に違和感がある話




最近はTwitterによって誰でも意見を発信できるようになったことで、どのようなニュースに対しても一般人(ここでは専門家ではない人の意)を見る機会が増えました。

自分自身、ニュースに対するコメントを見るのは時間の無駄だと思っているのですが、つい見てしまうこともあってその中で違和感を感じるポイントがあったので、短文ですが言語化してみようと思いました。

日本は原則的に法治国家である

日本は法治国家なので、政治家や首相の判断よりも法律のほうが上位の権力を持ちます。一方で、王政の国だと王の判断が法律よりも上になることもあります。

そのため、どれだけ権力がある政治家であっても法律に反した行為を行うことは許されていません。(ただし原則です、実際は法律違反をしている汚職も多々ありますが…)

つまり、政治的判断や裁判結果というものは「法律的に正しいかどうか」ということと照らし合わせたもので行われます。

一方で一般人の判断というのは「正しいかどうか」「合理的か非合理的か」という点で行われがちです。法律はカオスな世界のルールを無理やり言語化したものですから、常に不完全なものであり、正しいと言えないこともあるでしょう。

しかし、原則的に法治国家である以上、法律は個人の判断よりも優先されるべきなのです。もし「緊急事態だから」という理由で政治家が法律に反することを行っても良いとすれば、もはや法治国家であるとは言えなくなってしまうのです。

例えば、新型コロナウイルスが中国で流行して中国に在住の邦人をチャーター機で羽田に帰国させたときに、身柄を拘束して隔離することが出来なかったのも法律が原因です。

新型コロナウイルスは感染力が強く人命に関わりますから、一般人目線だと「なんで強制隔離せずに返してしまったんだ!」と思うでしょう。

しかし、これは法律(と、それを作っている国会)が不完全であることが悪いのです。現場の判断はあくまでも法律に従って行わなければいけないので、その判断を下した人を責めるべきではありません。

正しいか、正しくないかという泥沼の世界

また、何が正しくて何が正しくないのかは、一概に決めることが出来ない泥沼の世界です。

自分自身も含めて、本当の一次情報は限られた数しかなく、ほとんどの情報はマスメディアを通してフィルターを掛けられているものです。つまり、間違っていたり偏向されていたりする可能性があるということです。

そんな互いに不完全な情報を持った一般人が、正しいか正しくないかを議論した時点で泥沼化するのは当たり前でしょう。特にフィルターバブルの問題などもあり、ひとりひとりが違う情報源を見て世界を認識している現代です。

そう考えると、ひとつひとつのニュースに怒りながら意見を書き込むということの、なんという生産性のなさでしょう。いちいち怒っていて人生楽しいのかと疑いたくなるのですが、どうも人は自分が正しいとか、頭がいいと思われたい本能があるようです。

「法的に正しいか」と「正しいか、合理的か」は別

少し話がそれたのでまとめにはいります。

法的に正しいかどうかと、本質的に正しいのかは別の話であるということです。これを自覚せずに政治的判断について意見を言っても無駄ですし、裁判しても負けるでしょう。

何が正しいかは主観的な問題ですので、個人が意見をぶつけ合ったところで誰もが納得する結果にはなりません。そのために法律というものがあるのです。

世の中にある判断軸は「正しいかどうか」だけではない、ということに気がつくのは割と重要な気がします。