ルネサンス以後、すなわち17世紀以後の世界における都市国家は中央集権によってつくられてきました。それは、いうなれば中央に大きな「政府」という組織があり、この政府が各地方に対して法律を制定することで国の維持を行うという方式でした。
日本は鎖国を行っていたため、この中央集権型のシステムになるのは明治維新以後になります。江戸時代においても、江戸という中央都市はありましたが、今に比べて各地方の政府がそれぞれ納めていたことで安定の時代を築きました。現代の日本に比べて、地方自治が進んでいたのです。
さて、明治維新から今にいたるまで続いている中央集権型社会ですが、本当にこのままでいいのでしょうか?そして、今後はどうなっていくのでしょうか?この記事では、中央集権型社会から自律分散型社会へいたる必然性というものを書いていきたいと思います。
目次
なぜいま、自律分散型社会を考えるのか
中央集権と自立分散には、それぞれメリット・デメリットがあります。これまでは中央集権型のほうがメリットが大きかったので、中央集権のシステムがよく機能していたのです。
しかし、社会の様相が変化したことで、中央集権がうまく機能しなくなってきたのです。中央集権の大きなメリットは、中心となる存在が全体を統率・規格化することによって社会として共存できる基盤をつくれることです。
例えば、教育を考えてみましょう。日本は島国とは言え、北は北海道から南は沖縄まで広範囲に領土が分布しており、北海道と沖縄では文化も歴史もまったく異なります。しかし、日本という国内においては日本語という同じ言語が義務教育において学ばれているため、方言による多少の違いはあるけれども意志の疎通を図ることが出来ます。
つまり、日本の国内で教育された人同士はコミュニケーションコストが低く、低コストで価値創出をしやすくなっているのです。
また、高度経済成長期においても中央集権は非常によく機能しました。その最たる例は、マスメディアによる価値観の浸透でした。20世紀はマスメディアの世紀といってもいいくらい、日本におけるマスコミの役割は大きかったのです。
それは、テレビ・ラジオの普及によって強烈な映像・音声というコンテンツを国民に届けることができたからです。そして、電波というのは免許がなければ利用することが出来ず、誰でも好き勝手に発信することが出来ないことから、国民が同じような情報に触れていたというのが大きいです。
例えば、昭和の時代においては「いい大学を出て、いい会社に入って、結婚して、子供を生んで、マイホームをローンで買って、いつかはクラウンに乗る」というのが人生にとっての幸せだ、という価値観の刷り込みをされてきました。
それだけでなく、結婚式は一生に一度だから派手にお金をかけてやるべきものだ、という価値観をゼク○ィなどのメディアが煽り、洗脳をしたということもあるように、消費社会を形成する上でメディアは利用されてきたのです。
高度経済成長期においては、消費を増やすことで経済が伸びていったので、プラスの側面が大きくうまく回っていました。中央集権によって国民に同じビジョンを見せて、消費を煽ることで経済を発展させてきたのです。
中央集権がうまく回らなくなってきた理由
しかし、そのようにうまくいっていた中央政府の中央集権システムが、うまく行かなくなっているように思います。その原因は言わずもがな、インターネットの普及によってコミュニティーが分散化したことと、日本経済が停滞し続けていることです。
インターネットが生んだ情報の双方向性と文化の多様性
まず、インターネットの普及についてですが、インターネットが普及したことによって個人は情報を自ら発信することが出来るようになり、また個人と個人が直接つながれるようになりました。それによって、情報の取得手段はテレビやラジオなどの既得権益だけではなく、SNSやネットニュースという双方向のものに大きく移行していきました。
すると、何が起きるかと言うと、国全体の流行、すなわちムーブメントを起こすことが難しくなってきます。これは見方を変えると多様性がある社会に変化した、ということができます。
それは、例えば世間では赤い服が流行っていたとしても、青い服が好きな少数派の人達が直接インターネットでつながって、コミュニティを形成することによって、赤い服を着なくても自分らしい青い服を着ようという流れになるからです。
昔は、なにかニュースについて友達と話題にするときに、「昨日のテレビ見た!?」と言っていたものが、いまは「○○の件、知ってる?」とメディアを意識しない会話になっています。それは、人々がテレビ・ラジオ・SNS・ウェブニュースなど情報取得の手段が多様化したからであるとも言えます。
実際、僕は26歳ですがテレビを持っていませんし、持っていないことで会話についていけないということはほとんどありません。いまやネットでも情報を拾えるので、何が流行っているかとか、そういった情報をどこからでも拾えるのです。
日本経済の停滞がもたらしたこと
そして、日本経済の停滞が続く中で僕らは中央集権型の社会システムを修正すべきときが来ているように思います。日本経済の停滞のはじまりは1990年代のバブル崩壊でした。そして、その時期からインターネットの普及によって世界がハードウェア型産業からソフトウェア型産業に移行していくにも関わらず、日本は移行しきれなかった。
インターネットバブルが来た際も、ライブドアの事件などもあってインターネットやITによるソフトウェア産業に大きな遅れが生じてしまいました。失われた20年というように、日本のGDPは20年間ほぼ横ばいのままなのです。
ハードウェア産業の苦しいところは、限界費用が高いところです。限界費用というのは、新しい商品を1つ作るために必要な原価です。例えば、車を新しく一台つくろうとすると、材料の費用や工場の運営費や人件費など、大きな原価がかかります。
しかし、ソフトウェアというのは限界費用がほぼゼロに近いのです。例えば、AdobeのPhotoshopは定期的なアップデートをする必要があるものの、1ユーザーを増やすコストはほぼゼロです。なぜならば、ソフトウェア自体はすでに存在しており、1ユーザー増やすための作業はライセンスを発行するだけだからです。
しかも、ライセンス発行もすべて自動化されています。ユーザーはAdobeIDをつくって個人情報を登録し、クレジットカードで支払うだけで即時使えるようになるのです。すでにあるPhotoshopのソフトウェアをインターネット経由でダウンロードして使うことが出来るので、限界費用はほぼゼロです。
もちろん、IT開発は人件費が非常に高い割合を占めるので、初期投資にそれなりのお金が必要になる場合もありますが、スケーラビリティや限界費用の低さは明らかに利益構造として有利です。また、ハードウェア商品は初期投資をする上に原価が高いので、もし商品がヒットしなかった場合は大損します。
一方で、ソフトウェア商品は、最初は簡易的な機能のみを実装してユーザーのフィードバックをもらいながら改善していったり、あるいは早い段階で開発を中止することができるので、比較的リスクが低くすみます。
中央集権というのは、基本的には全体を「統一」する方向で動きます。例えば、日本の全員が同じ日本語を話せるといったように、全体を統一化することで、さまざまな場面で生じるコミュニケーションなどのコストを下げる方向に行くのです。
しかし、そのデメリットももちろんあります。それは、地方の文化という価値が高いものが失われる可能性があるということです。ソフトウェア型社会になりきれなかった僕らにとって、そして少子化が進む日本において、この「地方の価値」というのは非常に大きなポイントになるのではないかと考えています。
分散型社会による文化価値の最大化
北は北海道から南は沖縄まで、日本には素晴らしい文化がたくさんあります。しかし中央集権政府によって全国に同じ基準を設けて、同じような都市設計をしてきた結果、どこも似たような都市ばかりになってしまっています。
しかし、経済成長が止まって苦しい状態にあるいまこそ、地方性というものに可能性があると思っています。
文化というものは、その土地に住んでいる人が長い時間をかけてつくってきた価値観や美意識、構造物といったものを指します。そこにはもちろん合理的でないものもあるし、無駄なものもあります。しかし、この「長い時間をかけて」培われた文化というものの価値は非常に高いものなのです。
いわば、人間の生活・気候・風土・環境などの偶発的要因が掛け算されることによって偶発的に生まれ、熟成されたかけがえのないものが文化であり、簡単には真似ができないものです。
では、なぜそれをいま見つめ直さないといけないのか。それはテクノロジーの進化によって、多様性を保ったままうまくやっていく仕組みが整っているからです。
例えば、いまはGoogle翻訳を筆頭にしたリアルタイム翻訳のテクノロジーが存在します。そうすると、たとえ地方の方言を使ったとしても簡単に意思疎通ができるようになります。これは日本語と英語や、英語と日本語といった多言語間でも同じく成り立ちますね。
一昔前はこのようなテクノロジーがなかったので、日本語という共通語を持たないと会話のコストが高いか、あるいは会話ができないという状態になっていましたが、いまは方言のまま喋ってもお互いに理解できるよう変換してくれるテクノロジーはつくることができます。
そのため、多様でいることが生むデメリットよりも、多様でいるメリットが大きくなり、文化という付加価値を残したまま、うまく全体として連携することができるようになるのです。
高付加価値社会を目指して
少子化が進むにつれて、労働力が減っていくことはほぼ必然です。そんな中で我々がやることは、産業の高付加価値化であるということは、聞き飽きたという方もいるでしょうが事実です。
高付加価値社会になって豊かになるためには、限界費用が低いソフトウェア型社会にいくということや、地方の気候・文化という価値を最大限に生かした産業構造を作ることにあると思っています。
そして、それを実現するためのテクノロジーは徐々に整ってきています。機械学習をはじめとした統計的最適化の技術が進んだことで、人間が行ってきた判断や推論などの仕事をコンピューターに代替させることができるようになったからです。
中央に権力を集め、国民に同じ映像を見せて、消費を促していた20世紀の社会から、地方に権力を分散し、国民がそれぞれ違うメディアを見ながら、新しい価値をその地方の特性に基づいて創造していく。そんな社会を目指していきたいと思っています。