【コラム】街にあふれるデジタルゾンビの異様な光景について考える




今回の記事では、ずっとスマホを見ている人であふれている街の不気味さをテーマに書いていきたいと思います。そういう自分自身もデジタル機器は大好きで普段は長時間パソコン・スマホを使っています。

しかしながら、そんな僕であっても電車の中でも歩きながらでも常にスマホをいじり、ゾンビのように歩く人であふれる光景に気持ち悪さを感じざるを得ません。そのため、必要なとき以外はスマホを外出中に触らないようにしています。

このような感じ方は特殊なのでしょうか。それはよくわかりません。多数派であろうと少数派であろうと「どう感じるか」は関係ないので、なぜそのように感じるのかを言語化することで自分自身のモヤモヤを解消したいと思いました。

目次

スマホに釘付けの人であふれる光景は不気味である

駅で電車を待っていると、ほとんどの人がスマホを見ています。うつむきながらウェブサイトを見たり、ゲームをしたり、SNSを見たりしています。行っていること自体は変なことではありません。僕も毎日大量のウェブ記事を読むし、ゲームもするし、こうやってデジタルデバイスに文章を打ち込んだりします。

しかし、外に出たときに多くの人がうつむいてスマホを見ている光景は正直気持ち悪い。ドラッグ依存患者が禁断症状のためにドラッグを追い求め続けるように、スマホに対して多くの人が依存し、自らの意志を閉ざしているような感じがするからです。

実際、デジタル空間は刺激であふれています。SNSやニュースを見れば常に新しい情報が入ってくるし、好きな人と連絡しながら一喜一憂することもあるし、嫌いな人からの誘いにうんざりするなどリアルタイムでの刺激のやりとりがあります。

これはドラッグやギャンブル依存症に近いように思います。つまり、刺激を求めて依存症になってしまうのです。確かに電車に乗っている時に、何もせずに外の風景を見ても大した刺激を得ることは出来ません。それよりは効果音にあふれて豪華なエフェクトが出るゲームをしていたほうがよほど刺激的でしょう。

そんなの放っておけよ、と思う方もいるかもしれません。しかし僕は気持ち悪いと感じるのです。それは仕方がありません。確かにそう感じるのですから。直接的な迷惑を掛けられているわけではないので「放っておけよ」は確かに正論かもしれません。正論かもしれませんが、このような光景が今後も続いていったとき、幸せな社会が実現するようには到底思えないのです。

不気味さを感じる理由とは

ではなぜ気持ち悪いと感じるのでしょうか。なぜこの光景から幸せな社会を想像できないのでしょうか。

フィジカルな周辺環境に警戒心がないから

まずひとつ目です。不気味さを感じるポイントとして、スマホを常にいじっている人は周辺環境に対する関心が低いように見えます。これは治安が良いことの現れかもしれません。

しかし、都市社会の便利で安全な空間に依存し、だらけきった様子でスマホをひたすら眺めている人々の光景は不気味です。餌を与えられすぎて太ったペットのようにも見えます。

もともと動物である人間は、周りの様子を観察しながら行動するのが本能的には正しいのです。今日は雨が振りそうだなとか、桜がそろそろ咲きそうだなとか、そのような情報を五感を使って得ることで災害に対応したり、生活の中に豊かさを見出してきました。

しかし、いまはデジタル空間にアクセスすれば天気情報がすぐに分かるし、桜の開花時期もGoogleで一発で検索できます。そのようなデジタル情報のユビキタス化は便利な一方で、大切な「五感で感じる力」をどんどんダメにしていくようにしか思えないのです。

もはや、デジタルからあらゆる情報を抽出し、周りの様子に無頓着で、五感が衰えたような人を人らしいと呼べるのでしょうか。僕はそうは感じません。だから言い方が悪いかもしれませんが、スマホが普及する以前のように、僕は人を人として見れない一面があります。これは後でも触れます。

そして、五感で繊細に感じ取る力というのは想像力や生活の豊かさに直結します。音の質感とか、自然の色彩とか、そのようなものを解像度高く感じ取ることができれば、よりちょっとした面白さや美しさにも気がつけるようになるからです。

もちろん、デジタルを活用することが悪いとは全く思っていません。程度の問題なのです。しかしながら、泥遊びをしたり山に秘密基地をつくったりせずに、ゲームやスマホに依存しデジタルな世界に依存しすぎることは確実に悪だと考えています。

そのような環境だと、生命の尊さを実感する機会がないし、五感や美的感覚を上げていく機会が無いからです。だからこそ、暴力の痛みや言葉の痛みを想像することが出来ず簡単に人を殺してしまう。やはり自らの身体を使って自然を五感で感じることをせず、刺激に溢れる世界に依存している面が大きいと思うのです。

この議論は「ゲーム脳」が話題になった頃にされていた話と近いのかもしれません。何でもかんでもゲームのせいにしていたように、なんでもスマホのせいにするのは良くないと思います。しかしゲームに比して、スマホが我々の生活に与えた影響は尋常なく大きいという点で、スマホは特別です。

経済的な閉塞感や、地域コミュニティの崩壊、会社の終身雇用崩壊による第二の家族としての役割の崩壊など、さまざまな悪いことを生む要因もあるでしょう。

しかし僕は上記のような感じ方をしているので、スマホをずっといじっている見も知らない他人がとても怖いし信用していません。いつキレるのか、いつ刺してくるのかという不安をそこはかとなく感じてしまうのです。もちろん、一度会話をしたりすれば全く問題はないのですが。

スマホを利用しているのか、スマホに利用されているのか

人間は便利な道具をつくり、それを使うことで住みやすい世の中にしてきました。しかし、スマホに関しては人間がスマホを使っているというよりも、スマホが人間を使っているように感じます。これがまた不気味さを演出します。まさにスマホに依存させられているような感覚です。

更にいうと、もはやスマホ自信が意志を持っているようにも感じるのです。例えば、スマホをずっといじっている人を見ると、スマホを使っている人間ではなく人間を使っているスマホのように見えてくるのです。つまり人がスマホにとっての道具のように見えてくるのです。

つまり電車に乗っていても人に囲まれているというよりは、スマホが操作している道具に囲まれている気分。分かるでしょうか。スマホが操作している端末のように感じるのです。ターミネーター的世界観かもしれません。

僕らが見ているコンテンツは、誰かがコントロールしています。youtubeであればGoogleが、ソシャゲであれば運営会社が、ウェブサイトであればサイト作成者が。これらの作成者とスマホが手を組んで、常に面白い刺激を人々に与え、デジタル空間に依存させるという世界観。それが僕の頭の中にあるものです。

実際、GAFA無しでの生活がほぼ成り立たなくなってきているように、僕らはカリフォルニアンイデオロギーのデジタル植民地になりつつあります。このような、支配者がいて人々をコントロールしているかのような構図がとても不気味に感じるのです。

インターネット技術は世界をつなぎましたが、もしかすると中央集権化が加速したと言えるのではないでしょうか。これほどまでに遠く離れた人々がつながる前は、区や市といった街の単位でのコミュニティが分散的に存在していました。

しかし誰もがスマホやパソコンを持ち、そのOSやソフトウェアが巨大な組織によって一方的にコントロールされている状況下においては、分散自律性を失っていると言えるのではないでしょうか。LINEのサービスを止めるとか、Twitterを止めるとか、そのような状況になれば消えるコミュニティはかなり多そうです。

つまり言いたいことは、人間が人間らしくあるのであれば、機器を主体的にコントロールし自らの意志で利用することが大事ではないかと思うのです。そして、歩くときでさえうつむいてスマホを操作して歩くのって、もはや依存症なんじゃねーの?ということが言いたいのです。

おわりに

もはやデジタルというものは、尋常じゃないポテンシャルとその力で世界を変えています。ポジティブな面もあればネガティブな面もあります。しかし、どのような世界になるとしても自分の意志で行動をすることは、人が幸せな人生を送るための必要条件だと思っています。

この記事は偏見で溢れているとは思いますが、普段感じていることをそのまま書きました。正しいか正しくないか、という軸ではなく何を感じているかということをそのまま書いたという点で、自分でも発見がありました。

世の中ではロジカルさや正しさが求められる中で、こういった感覚的な話の大切さがどんどん無視されているように感じます。人の根本にあるのは、感情であるのに正しいか正しくないかだけでジャッジしようとする今の風潮は嫌いです。

僕は、デジタル的なロジカルさと、自分の遺伝子やこれまでの経験から直感的に感じるアート的とも言える世界観を両方大切にしていくことこそ、大事であると確信しています。