いまこそ「写真」の良さを再認識すべきタイミングではないか?




新型コロナウイルスの影響で、日本においてもメンタルヘルス的に良くない状況が続いているように思います。

マスコミの切り取り報道・煽り記事であったり、SNSによる集団リンチであったり、政権批判や自粛警察と呼ばれる人々。

人がリアルの世界から撤退し、テレビやラジオやインターネットのデジタル空間に引きこもることによって、ますますその流れは加速しています。

この濁流のように押し寄せる情報の波に押しつぶされないにはどうすればいいのでしょうか。そこで重要になってくるのが「動画から写真へ」という視点であると思っています。

僕は動画というものは写真の上位互換だと思っていた時期がありました。今であればそれは間違いであると分かるのですが、動画は時間軸があるので純粋な情報量だけを言えば写真よりも上だと感じていたのです。

データというのは基本的に大は小を兼ねますから、データの質が同じであるという条件下では、データが少ないよりは大きいほうが良い。多いデータを間引くことはできますが、少ないデータをかさ増しすることは出来ません。例えば、アンケート調査や研究に使うデータということであればそう言えると思います。

しかし、それは人が情報と向き合う上で常に成り立つ法則であるとは思っていません。「脳にインプットされる情報が多ければ多いほど良い」という主張が間違いであることは、この新型コロナ下で多くの人が感じたことではないかと思います。

情報の流れというのは刺激的なものですからある種の中毒性があります。しかし、それは脳を疲れさせてしまうという性質もあります。

人の情報源が外出できないことによってリアルからデジタル空間に移ったことで、なにか1つの情報に対してじっくりと向き合う時間が実は少なくなっているのではないでしょうか。

動画というのは情報量が多く、具体的です。別の言い方をすれば、想像する余地が無いですし、そこに映っている情景について立ち止まって考えるということはほとんどしません。

一方で写真は一瞬しか切り取れませんから、抽象的で人々の想像力を引き起こします。そして、当然写真は動きませんから、ひとつの情景に対してじっくりと向き合い、自分の感情と向き合うことができます。

世間では未だにひどい汚職があるし、転売クソ野郎はいるし、SNSでは怒り狂った人で溢れています。しかし、それはひとりひとりの幸せとは関係ないことであると考えています。

むしろ、そのようなお金にとらわれてしまった人や、情報に流されて天気の奴隷になっている人のほうが同情すべきであると思うのです。

動画から写真へ。1枚の写真に対してじっくり向き合う、被写体の前後の状況を想像する、なぜシャッターを切ったのかを想像する、そのような時間も重要ではないでしょうか。