【天気の子】映画を見た解釈と感想について(セカイ系・環境問題・ポリティカル・コレクトネス)




※この記事はネタバレを含みます。また、この記事は映画を見た方を対象としています。

2019年夏に大ヒットした映画「天気の子」が、2020年5月27日にようやく配信サービス開始しました。

僕はAmazon Prime Videoで見ましたが、他の配信サービスでも配信されているようですので、まだ見ていない方やもう一度見たい方は、ぜひご覧ください。

今だからこそ感じることが出来ること

この映画が公開されたのが2019年夏。そして今記事を書いているのが2020年6月なので、世界は大変なことになっています。

  • 新型コロナウイルス「COVID-19」という自然に対する脅威
  • 梅雨前にも関わらず東京ではすでに夏日が連続
  • アメリカを起点として世界中に広がった、人種差別撤廃運動

まさにいま「天気の子」を見てみると、未来を予言しているかのように思えるのです。そこで、今回ブログ記事として僕が感じた、解釈したことについてまとめてみようと思いました。

科学的パラダイムに一石を投じる「セカイ系」

セカイ系というのは、ある個人が世界の命運を握ってしまうという設定を持つ作品のことです。SF作品に多く見られ、例えば、下記のような作品があります。

  • イリアの空、UFOの夏
  • 涼宮ハルヒの憂鬱
  • 君の名は。
  • 天気の子

天気の子もセカイ系の性質を持つ作品であり、ヒロインの陽菜の感情に呼応して天候が変化したり、晴れを願うと一瞬で晴れてしまいます。

この「個人と世界がつながってしまう」という考え方、言い換えると「自分が世界と密接に連動していて世界と一体である」という考え方は、科学的パラダイムが生まれたルネッサンス以前では一般的でした。

科学的パラダイムの根本にあるのは、自己(=主体)と自己以外の外的環境(=客体)がそれぞれ別々に存在しているという考え方です。このパラダイムによって、人間は自然を研究対象とみなして産業的には大きな成功を収めてきましたが、一方で失ったものもありました。

それは、世界との一体感から生まれていた万能感や安心感の喪失です。どういうことかというと、かつて人間は自然と溶け合うように一体化しているという感覚を持っていたことで、そこに帰属感を感じていました。

つまり、神のごとき自然と自身が一体であるという感覚を持つことで、安心感や自分の存在意義を見出していたのです。しかし、科学的パラダイムによって自分と自然というものが分離されてしまうとどうなるでしょうか。

「自然とは説明可能なものである」として、自然に対する神秘性が失われるのみならず、自分自身は1つの「個」として存在するものとなり、大きい超越的な存在と一体化するという安心感さえ失ってしまったのです。

科学的パラダイムが浸透した現代においては、大人になるということは、自分と自然は別々のものだと理解して自分の限界を知ることであり、物事を論理的に解釈することです。

「中二病」と言われている現象は、まさに個人と世界が一体となっていることに対する憧れが表出したものであると言えるのではないでしょうか。世間では、中二病は恥ずかしいものとして扱われていますが、見方を変えれば中二病から卒業することこそが科学的パラダイムに「洗脳」されることだとも言えます。

つまり、子供から大人になることは「自分が世界とつながっている」という感覚を捨てて、民主主義の前提となっている「理性的に全体の利益を考えて判断することが出来る一市民」になるということです。

しかしこれは上にも述べたとおり、人が何にも属さない「個」になったことで人の精神は非常にもろくなってしまい、世界には精神病患者が溢れているという状態になっているのです。

天気の子においては「個人とセカイがつながる」という科学以前の世界観が示されています。これはあくまで一つの解釈ですが、科学的な合理性だけを信じて良いのだろうか?というメッセージを感じました。

環境問題

また、天気の子は現在の環境問題についても密接に関わっているように感じました。

雨が降り続いたり、猛烈な暑さが来たり、夏に雪が降ったり・・・そのような異常気象は遠い未来の話では無いのかもしれません。

記事を書いている2020年に子供を生んだとしても、その子は2100年という遠い未来に見える時代をほぼ間違いなく生きるでしょう。そもそも2100年が訪れる前にも、異常気象によって社会が破壊されてしまうかもしれません。

映画の中では、帆高が世界ではなく陽菜を選んだことで、東京に雨が3年以上も降り続くという結末を迎えました。しかし、そのような状況の中でも、人々は船を用いて通勤をするなど何とかやっている様子が描かれていました。

これは新型コロナウイルスという自然の脅威にさらされた状況にも酷似しているのではないでしょうか。我々はたしかにこの驚異を目前にして恐怖を感じましたが、新しいルールつくり、ハイブランドなメーカーが布マスクをファッションとして生産するなど、生活様式を変化させて自然の脅威に対応しています。

環境問題に対するメッセージが「人は過酷な状況でも何とかやっていける」という希望を伝えたかったのか、あるいはよくありがちな「自然を大事にしないと取り返しつかなくなる」と伝えたかったのは分かりませんが、少なくとも人間と自然の関係を見直す重要性を伝えたいのかな、とは思いました。

ポリティカル・コレクトネス

現代は、個人の欲望がポリティカル・コレクトネス(=社会的正義)によって強く弾圧されている時代のように感じます。

何かを発言するときは、各方面に気を配らなければSNSで袋叩きになってしまいます。黒人、白人、ヒスパニック系、アジア系、男性、女性、男性でも女性でも無い人、、、

一方で、それによって世界の多様性が担保されているかというとそうではありません。結局のところ、民主国家では投票という多数決ルールによって運営がなされています。つまり、多数のために少数の犠牲は仕方がないという「最大多数の最大幸福」の考え方が動いています。

でもまあ仮にさ、人柱一人で狂った天気が元に戻るなら、俺は歓迎だけどね。ていうか、みんなそうだろ

これは圭介が放ったセリフです。これはまさに、多数派が少数派を犠牲にする構図をそのまま表しているのではないでしょうか。

例えばSNSの炎上事件。テレビやまとめサイトが”多数の”人を楽しませるために、誰かターゲット1人を定めてイワシの大群のように攻撃をする。そのような地獄絵図ともいえる状態になっています。悲しいことに、自ら命を絶ってしまう人もいます。

でもまあ仮にさ、人柱一人で他の人がストレス発散できるなら、俺は歓迎だけどね。ていうか、みんなそうだろ

また、帆高が線路を走る場面。天気が戻った代わりに陽菜が失われたという裏事情を誰も知らないくせに、人は勝手に判断をして馬鹿にしています。これも実際に起きたら間違いなくSNSで炎上するネタになるでしょう。誰も事情を知らないにも関わらず。

本当に、周りに合わせて社会を第一に考えるのが大事なのか?自分にとって重要なもの、例えば誰かに対する「愛」をより大事にしても良いんじゃないのか?そのようなメッセージを感じました。

愛に出来ることはまだあるかい。これは、社会的正義というフォーマットされたルールに従わないと叩かれるという息苦しい社会に対するテーゼであると感じるのです。本当に大事なのは、ルールなのか?愛することの尊さを見失ってないか?そのようなメッセージのように思うのです。

早く大人になれよ、少年」

これは圭介が帆高に言った言葉です。この作品では子供と大人というものが対比して描かれています。

ここで言う大人というのは、社会全体を第一に考えることが出来る理想的市民のことです。

この作品の中では、圭介が「大人」の象徴として描かれている一方、帆高は「子供」の象徴として描かれています。そして最終的には、圭介が社会より1人の愛する人を取るんだという「子供」的な価値観の重要性を思い出し、ひとりの少女を守るために社会全体がずっと続く大雨というエンドを迎えます。

誰かによって作られた社会的正義、それを守ることに必死になって本当に大事なものを見失ってないでしょうか。一人ひとりに寄り添って物事を考えているでしょうか。自分の限界を感じることが「大人になる=良いこと」だと思いこんでいないでしょうか。

そのような様々なメッセージを感じることが出来る、とても見ごたえのある作品だと思いました。監督自身の考えは分かりませんが、現代社会と照らし合わせたときに感じることがたくさんあるいい映画だなと思います。