工業化の象徴「錆」と「曇天」が生み出すノスタルジー空間(後半)

新芝浦駅の入り口




この記事はこちらの続きです。

プラットフォームの錆

工業化の象徴「錆」と「曇天」が生み出すノスタルジー空間(前半)

2019年4月30日
大きな道路

終点の扇町駅で改札を抜けると、歩いている人はほぼ見かけなくなりました。ゴールデンウィークの連休に行ったこともあり、通る車もほとんどありませんでした。それでも大型のトラックが時折通過し、また何かの作業をしている作業員を見かけることはありました。

世間は連休中で人も車もほとんどありませんが、工場は常に可動しており大きく力強い、機械的で無機質な音が不思議なハーモニーを奏でます。人がほぼいないにも関わらず、大きな音で動き続けている工場に囲まれた世界は、まるで世紀末に迷い込んでしまったかのようでした。

複雑なパイプ

これまで工場を近くで見る機会はあまりありませんでしたが、今回行って驚いたことは工場の驚くべき複雑性でした。すなわち、数十本・数百本のパイプが複雑に絡み合いながら、巨大なネットワークを形成しており、そのうち何本かの太いパイプによって工場と工場間の離れた距離を接続している。

これは、普段使っているインターネットのメタファーであるとも思えたし、動物の体内構造を表出したものである、とも感じました。

インプットとしてマテリアルをネットワークに与え、それをエネルギーや製品に変換するという工業化における操作。それはインプットとして情報をニューラルネットワークに渡し、アウトプットとして統計的最適解を得るという機械学習技術と全く同じフレームに思えるのです。

大きな違いは、このネットワーク構造がハードであるかソフトであるかという点です。ハードである工場では、その立地に合わせてチューニングを行う必要性が出てきます。気候や地盤といったものから、建造コストといったものまであらゆる要素を考慮しながら最適なものを見つけていかなければいけません。

一方で、ニューラルネットワークはその構築法や効率的な演算法がプラットフォームとして誰でも使えるようになっているか、あるいはオープンソースとして使えるようになっています。

ネットワークに何かをインプットして何かのアウトプットを出すというフレームは全く同じでも、そのネットワーク自体を作るために必要なコストというのは雲泥の差があるのです。僕はこの差こそ、平成と令和で埋めるべき溝だと思っており、ハードウェア型社会からソフトウェア型社会へ移行することへの象徴だと感じました。

枯れ葉

季節は春だというのに、道には枯葉が落ちていました。桜や新緑といった命が新しく生まれる季節というイメージがある春ですが、春に花が咲かない植物や、枯れている植物というのはひっそりと存在するのです。

工場の錆と枯葉の茶色が溶け込んだ空間はまさしく退廃的であり、機械的であり、工業的でした。この風景には希望が持てないまま生きるために働き続けて摩耗している、現代の日本人の姿を彷彿とさせられました。

古く退廃的なものを愛でる「寂び」的な世界観では退廃的なものは美しいとされますが、僕の心に入ってきたのはそれ以上の寂しさでした。

新芝浦駅の入り口

新芝浦駅に行きました。この駅は古い木造の駅舎であり、長い歴史を感じます。正面には東芝の巨大な工場があり、駅舎とは対照的にキレイでオーガナイズされています。工場の撮影はNGなので、カメラを向けることはしませんでした。

この駅舎を正面から見ると、たくさんの長方形が目に入ります。奥には長方形のガラスが存在し、それが4×4に並んで大きな長方形をつくり、さらに入り口は大きな長方形になっています。

僕は、こういった相似に近い関係性をもった幾何学的空間が好きです。対称性や相似性というのは、人を惹きつける何かがあるのでしょう。そして奥の16枚のガラス(正確には1箇所欠落しているので15枚)を通して見える光景は、テレビのように平面的で仮想的です。

ガラスの後ろに射影機があって、別の場所の風景を映し出していると言われても納得してしまうかもしれません。連続的になめらかな空間を、窓というフレームで切り分けるというのは、カメラによって空間を切り取るという操作と全く同じです。

もっと言えば、天気や時間帯によって光が変化し、映し出される光景も変わってくることを考えると、写真以上の情報量を持った時間性を持つ動的アートであるとも考えることも出来ると思いました。

新芝浦駅の注意書き

駅構内にはレトロな看板が存在したのが目を引きました。学校の黒板と白いチョークを彷彿とさせます。

面白いと思ったのは、この看板の文字に対してレトロさやノスタルジーを感じたことです。この文字は人間が書いたのか、機械が書いたのか分かりません。しかし、フォントに対して時代性を感じるというのは面白い現象だと思いました。

つまり、よく使われるフォントというのはその時代の美的感覚を射影しているとも言えるし、技術的な要素を包摂しているとも言えます。

時間の重みを感じる要素は、錆・フォント・汚れといったものがありますが、これらが持つ、色・匂い・形・触覚といったものが時間の重みを感じさせるとすると、コンピューターによって解像度高く再現された錆やフォントに対して、僕は何を感じるのだろうかという疑問に行き着くことになります。

これは「本物」とは何かという議論にもつながっていきます。つまり、分子レベルで同じ構造のものをコンピューターで再現出来るようになったときに、「本物である」という価値は一体なんなのだろうかという話になっていくのです。

この話は長くなってしまうのでこの記事ではしませんが、「何故、これをレトロだと思うのか?」という切り口で物事を考えてみると、面白い発見につながっていくと思ったのです。

鉄柱の錆

そろそろ日が沈むという曇天の日の光は、やはり錆や鉄といった工業的存在を鬱々としたものに描画します。この鉄柱からは時間的な重みと、台風や雷の日においてもずっとここに立ち続けてきたという空間に対する強さを感じました。

新芝浦駅のプラットフォーム

駅のすぐ後ろには東京湾の運河が広がっています。水が流れる空間は好きです。物事がすべて諸行無常であるということを思い出させてくれるし、時間の流れを目で見ることが出来るからです。

水の表面は風と波によって常に揺らいでいます。僕らが認識しきれないような無数の要因によって、ひとつひとつの波がアウトプットとして現れていると思うと、自然界の複雑さと無限のデータに対する畏敬の念が浮かんで来ました。

最後に

工業の時間的重みを象徴する「錆」。そして均一で低コントラストな光になる「曇天」。この2つの掛け合わせによって、僕は強い寂しさを感じました。

それは、古びていくもの・終わっていくことに対する無力さを「錆」が象徴し、すべての人に等しく与えられた「死」というものを均一な光が象徴しているからだと思いました。

朽ちていくものに「何故美しさを感じるのか」は自分の中で言語化出来ていませんが、令和の時代では「どこか懐かしいよね」「なんか寂しいよね」と思えるノスタルジーなテクノロジーを生み出せたら、とても面白いと思いました。




新芝浦駅の入り口